2021年10月9日土曜日

土曜牛の日第41回「ニュースで不幸」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

先日は関東で震度5強の地震がありましたね。人類は地震と疫病で思想を鍛えてきました。というか、首都圏でこのレベルの地震があって、それほど騒がない国は他にどこがあるかな。

近代短歌論争史昭和編は第7章「土屋文明と高田浪吉の生活詠論争」。島木赤彦亡き後のアララギにおいて、土屋文明系と赤彦系が対立して、文明系が覇権(ヘゲモニー)を握るなかでの論争です。

赤彦系の高田浪吉(なみきち)は、赤彦の鍛錬道、人生即作歌という歌風を守る職人の歌人だが、赤彦亡き後アララギのエリートたちを批判しながら、ついに土屋文明の作品にも批判をはじめた。


「八月十六日」  土屋文明

目覚めたる暁がたの光にはほそほそ虧けて月の寂けき

暑き夜をふかして一人ありにしか板縁(いたえん)の上に吾は目覚めぬ

ふるさとの盆も今夜はすみぬらむあはれ様々に人は過ぎにし

暁の月の光に思ひいづるいとはし人も死にて恋しき

有りありて吾は思はざりき暁の月しづかにて父のこと祖父のこと

空白み屋根の下なる月かげや死の安けさも思ふ日あらむ

たはやすく吾が目の前に死にゆきし自動車事故も心ゆくらし

安らかに月光(つきかげ)させる吾が体おのづから感ず屍(しかばね)のごと

争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ


浪吉は、3首目を「様々に人が死んだという考へ方は好まぬ」から「様々なことをして人が死んで行った」と解釈したいと言い、8首目を自分を「あはれむ気持」が「甘し」とし、9首目の歌を夫婦争いの憎悪の歌として、「さういふ所には歌の大道はあり得ない」と批判した。

しかし、文明も軽くいなして訂正をしたが、浪吉の解釈は作品のポイントが基本的にずれていて、赤彦系のスローガンである鍛錬、大道に説得力をもたせる以前のところでの派閥意識のような批判となっていて、大きな論争にならず、赤彦系の衰弱を示す結果となった。

文明の生活詠も、赤彦系の自然詠の脱却のための新しい方法論が提示されるわけでもなかったが、赤彦系の鍛錬主義、人格の陶冶と写生、という方式はうすらいでいった。

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ヘゲモニーという言葉について考えざるをえないよね。そういうポケモンの名前ではない。

論争というのは、つまるところ覇権争いなので、論争史を読む以上ヘゲモニーの移動を把握することがポイントではあるのだが、覇権を取る主義や作風は、主義や作風それ自体が取るものなのか、時代が選ぶものなのか。今の時代は、何がヘゲモニーをもっていて、それは、新しい論争が変えるものなのか、それとも、ただの飽きなのか。

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  七首連作「ニュースで不幸」

目の前のケーキにだって陰謀論それがおいしいからまずいから

ニッポンは不幸なニュースが多すぎるニュースで不幸を思わせすぎる

むかしむかし物資払底した国で子供の笑顔が光った話

生き物は生き物の悩み、死に物の悩みを覗くとき色は黒

さきゆきが不透明だと言う時に江戸時代は透明っぽいと思ってごめん

起きたらば結構寝てた秋眠も覚えておらずアカツキムーン

コロナ禍でこのなかでこの世の中で転んだままで喜んだままで


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