2021年10月16日土曜日

土曜牛の日第42回「怒らない方に」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

短歌があまり好きではない、という内容の誰かのブログを読んで、ちょっと気持ちが沈んだのだが、そんなやつそもそも多いだろうし、自分が落ち込むのは大変にスジチガイだとあとで冷静になった。そういうときは腕立て伏せ50回やればいいのだ。

近代短歌論争史昭和編の第8章は、「斎藤茂吉と谷鼎の花紅葉論争」。有名なあの歌の解釈をめぐる論争で、斎藤茂吉が完敗したのだ。

新古今和歌集「秋歌上」の藤原定家の、

  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

この歌の<花ももみぢもなかりけり>について、斎藤茂吉と谷鼎(かなえ)が二年あまり対立した。斎藤茂吉は、これを実景として、もう花も紅葉もなくて秋の夕べはさびしい、という解釈をした。

この歌の解釈は、17世紀に北村季吟が八代集抄で「花も無く紅葉も無いが大層おもしろい」と非実景でとらえ、本居宣長もそれに同じ、宣長の門の石原正明も「花も紅葉も及ばぬほどの好景なり」と非実景だったが、茂吉と同世代の国文学者鴻巣盛広は「花モ無ク紅葉モ無カツタワイ。」と実景の説を取っており、茂吉はそれを支持した。当然茂吉にはアララギの写実の理念が念頭にあったのはまちがいない。

それに対して、藤原定家を研究テーマにもしていた谷鼎は、実景説を退けて、象徴説をとって対抗した。まず「花」は秋の千草の花でなく、桜の花であり、象徴の美としての「花」と「紅葉」であること、浦の苫屋に桜や紅葉が無いことを藤原定家がわざわざ言うわけがないこと、「なかりけり」の言い切りの不自然さは、美の象徴の花や紅葉がないのにそれに類した美の気持ちをもたらす浦の景色を表現しようとする「新らしき語調」の詠嘆であること、を述べて、茂吉のように「万葉の目を以て新古今を尽く解さんとするやうな錯誤」に釘をさした。

だまっていられなかった茂吉は、9ヶ月に渡って、「花も紅葉も無いワイ」か「花も紅葉も要らぬワイ」かを、用例を調べて「無い」の用法に「要らぬ」の意味があるかどうかを調べ上げた。「無い」に「要らぬ」の意味がなければ、谷の説を覆せると考えて、そんな用例がないことを証明した。

谷は、茂吉がすべて言い尽くすのを待ってから、逆襲した。まず、9ヶ月かけて調べた「なかりけり」は「無いワイ」の詠嘆でよいとした。「要らぬ」「及ばぬ」の意味は、作品の余韻の解釈なので、茂吉の抗議に抵触しないと言いこなした。それから、茂吉の訳の「もう花も、また紅葉もない」が実景であるなら、両方にかかる副詞の「もう」を考えると、もう紅葉もない、つまり冬になるので、「秋の夕ぐれ」がおかしくなる。そして、この歌が、あるべきものの不在の寂しさではなくて、浦の苫屋の寂しさそのものの趣をよんだ歌であることを、古典和歌における「花」「紅葉」の象徴や観念を説明しながら論じた。

谷は最後に(斎藤)博士のこけおどしの空砲ではなく、実弾を、標的をちゃんとねらって撃ってもらいたい、としめくくったが、茂吉は反論することはなかった。

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無い、という不在が実景なのか非実景なのかを議論する、というのは、なかなかイカれた論争だな、とは思うよね(笑)。だってどのみち無いんだもん。

ただ定家の時代に、幽玄様とか言葉があるけれど、不在のものをよむ、というのは、言葉そのものの力についていくというのは、おそろしく勇気のいる行為だったかもしれないよね。すごく表現として前にいたんだろうな、と思う、和歌は。

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  七首連作「怒らない方に」

鼻の時代、耳の時代がありまして目の時代目は濡れてばかり

人の言葉をさえずりにしてしまったろ、もうそれは快と不快の音色

関係は神社とおおかみのごとし、歩くとは目をあきらめること

人間をからから逃げて信天翁、アホウドリの名は救済だのに

雪野をばひたすらはしる犬の景、探していたがやがて楽しい

価値観がバラバラなのとひとつなのと、より怒らない方に3000点

いまどこで君は落魄してないか、神々を今日も遣わしといた


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