2021年10月23日土曜日

土曜牛の日第43回「短歌はいつよ」

 こんにちは。土曜の牛の文学です。

今日の近代短歌論争史昭和編第9章は「松村英一と土屋文明をめぐる定型散文化論議」というもので、これは具体的な論争というよりも、昭和8年頃に、短歌の散文化がどのように受け止められていたか、というなだらかな状況についてのものだ。

といっても、まずは『国民文学』の松村英一が、短歌の発想が散文化しがちになることの必然性を述べたさいに、「写生歌が、死物の如き姿を以て現れ」ているとアララギを批判したから、土屋文明が『国民文学』の植松寿樹の作品をくさしたのが論議の始まりではある。

 空にむきて枝はる樹々の早き芽立わが家の庭とくらべて仰ぐ  植松寿樹

 わが側をすりぬけて急ぐ自動車は女同志さそひ合せて乗るか

<空にむきて枝はる樹々><わが家の庭とくらべて仰ぐ><すりぬけて急ぐ><さそひ合せて>のような散文化した発想の低俗はどうなのか、と土屋文明はやりかえした。

松村英一は、土屋の神経質な批評態度に異をとなえつつ、短歌が散文化していくことの妥当性や新しさを主張した。

この話題について、尾山篤二郎は、散文化を試みた最初の歌集は窪田空穂の『濁れる川』だとして、散文の取り扱う世界を歌に取り入れる文化が『国民文学』にはあるとした。またアララギにも、正岡子規以来のリアリズムが根幹にある以上、現在のリーダーである土屋文明にもリアリズムとしての散文化を期待した。

ところが文明は散文化という言葉を疑問視し、この言葉が、単純化の不十分性や、叙情性や、作為的な水増し表現や、定型の調子の張りなどを無視されがちな弊害を警戒した。散文化によるリアリティの深化に期待しないわけではなかったが、否定的な見解をもっていた。

そのころ、昭和8年5月号『短歌研究』の五十首競詠で、土屋文明は有名な「鶴見臨港鉄道」二十二首を出している。

 本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし  土屋文明

 幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり

 吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は

 横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

 無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ

この作品について自由律の矢代東村は「今年度に於て、散文化の問題に関連し、最も注意された」と評し、釈迢空も「さすがに、こんなのを見ると、世間の空元気のどなり歌とは、はっきり区別が立つてゐる」と高く評価した。

しかし尾山篤二郎はこれは否定的だった。「把握力の強靭さが無く、全く散文化して了」ったという。

散文化の話題は、その後も大熊信行や、清水信や、半田良平などがニュアンスを変えながらすすめていく。概ね散文化を支持する流れであるが、伊沢信平など、反対するものもあった。

散文化をねらった作品は、どうも「漢字・漢音の熟語の羅列、文語体の文章口調、著しい調子外れ等、つまり文語的散文の一節か一行に過ぎないもの、内容的には、恐しく非科学的な、空疎な観念、ファッショ的イデオロギー、瑣末(トリビアル)な俗事の表白等である」(伊沢)

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短歌の散文化の問題は、およそ3つのファクターがからみあっていると思われる。1つは現在性の獲得の問題、2つは非日常の詩から日常の詩(散文)への移行、3つは定型の維持するか否か。

この3つの、たとえば土屋文明は、1は肯定するものの、2は詩であるべきで、3の定型は破壊するわけにはいかなかった。このポジションで、プロレタリア短歌(全部既存のブルジョア的なものは壊せな思想)が元気なあの時代、散文化を言葉の上でも簡単に賛成するわけにはいかなかっただろうと思われる。

でもこれも、思い返せば、明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に含まれた議論なんだよなあ。(土曜牛の日第1回「滅亡論」

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  七首連作「短歌はいつよ」

しのびよる表現の過激忌避の風、本焼けば暖はとれるしばしは

しあわせを君を祈るたびつくづくと、居場所を君は変える旅つづく

青年は詩を 中年は川柳を 老年は俳句を(短歌はいつよ)

「恥ずかしいセリフ禁止!」と言うアニメキャラの恥ずかしいセリフを見つけるはやさ

人生のうわぁなことはやったのであとは生きるだけの人生

水着って下は衛生的に分かる、上は性的な他にあるっけ?

my salad days、(YouTubeのアイコンがまだブラウン管だった時分に)


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