2016年3月5日土曜日

2014年02月作品雑感。

3月になり、少しずつ暖かくなって、いや、寒さがほどけていくようです。「少しずつ」といえば、「づつ」に違和感を感じる方がいらっしゃったようで、照屋などは、むしろ「ずつ」に新しさ、というか、学校教育風な匂いを感じてしまいますね。

基本どっちでもいいです。ですが、短歌を作るときは、「ずつ」は嫌だなあと思うことがありますね。「づつ」にすることが多いです。いや、短歌では「ずつ」を使うことは無いかもしれない。

文語と口語、旧仮名と新かなの表記法については、かつては表記警察のように自分にも人にも厳しくしていた時期もありましたが、むしろ今は混在を楽しむようなところがあります。だって歌(うた)なんだもん、という気分があります。

途中まで新かな口語で、最後に「〜なりにけり」で終わるって、歌ってんなーって思うよね。

だから、まあ、その混在に違和感があれば、照屋の短歌は軒並みアウトですよね。

もちろん、文法や表記は一貫性があった方が正確に相手に伝えられるので、礼を失しているのはたしかだ。
でも、日常も非日常もない現在で、短歌がやはり非日常であるなら、それは、表記や文体のルールをトランスするところにもあるのではないかな、と苦しい弁明をするのである。

自選

何を焼く煙の商店街に満ち雲霧林ゆく男のごとし

苦しみはあらあら報い冷えた地をあたためる日はひとつしかなく

実朝は三十路を知らず壮(さかん)なる命の前に無常を詠みき

雪に閉じ込められた二人には食べあうまでを食べているなり

雪の畑にふくらすずめの木がありて灰褐色に咲いているなり

あたたかき茶の一杯が寒き身にたしかにうれし分福茶釜

オアシスの水量により栄枯する国家がありき遺跡ましろし

かつてここに洋鐘ありて遠くまで鳴りしと読めり、またひとつ鳴る

人間も悲しいなあと、かばは云うコンクリ池に穏やかに生き

この宇宙の元素が表になるという狂気を暗記しあう学生

日の昇る前の世界でこの声はまだらが黒に負けたのだろう

外周のふちの傷白き瓶コーラを二人で飲めり先を濡らして

湖のほとりを歩く王または患者と主治医の影みずに揺れ

指に載せて鳥は二度生まれるという人も何度か生きねばならぬ

電気記録の短歌はすべて消え失せてそのようなものを残す身となる

植物を選ぶほど愛を拒まれてアポロンの遠い恐怖を思う

人生は楽しいものという歌が離れゆく隊商(キャラバン)より聞こゆ

蔵書印まっすぐ押されたる古書のその所有者の背すじをも購(か)う

今夜君は青く美し月光を何リットルも浴びたるように

なんか多いな(笑)

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