ラベル 2014 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2014 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年1月2日月曜日

2014年12月作品と雑感。

2017年明けましておめでとうございます。今年も生きとし生けるものすべてが、足りないのは足りて、弱っているものは元気になり、行き詰まっておればひらけるようになることを、願っています。

先月から、noteをはじめまして、ツイッター、ブログ、うたよみん、noteと、書き散らかしてしまってよくないなあと思っております。このブログは、ひとまず、過去作品とうたの日作品をまとめながら、ちょっとまとまった文章を書いたりする場として続けてゆくことになろうと思います。

2014年12月は、「第57回短歌研究新人賞父親のような雨に打たれて」石井僚一」で、短歌の虚構問題というのが話題にあがった。テルヤは、ちゃんとそれらを読みもせずに、ツイッターでふわっとこれについて思うことを書いて、togetterのまとめに追加されたりした、ということがあった。
一応まとめて上げておく。
ーーーーーーーーーー
短歌の虚構問題、古くて新しいテーマかもね。ネットでしか情報収集してないけど、思うところあり。

短歌はどうしようもなく一人称の形式なのだけど、その<私>にはざっと数えても4つくらいある。

まず作中で名乗る①主人公的<私>。彼はその舞台を演じている。
次にその作品世界を物語る②地の文的<私>。彼は①を俯瞰して語ることが出来る。
ここから次元が2.5次元くらい上って短歌作品を詠む③ペンネーム的<私>。
そしてやっと3次元の、親から呼ばれたりする名前の④人間的<私>が表れる。

そして恐ろしいことに、短歌の読みは、虚構がそれとわかる仕掛けがない限り、①〜④の一貫性が要求されたり、前提として補われたりする。

また、別の言い方をすると、①を虚構にすれば②が、②を虚構にすれば③が、その虚構を保証しなければならない。

話題になった議論は、この④=③が、②の虚構(=事実)を保証しなかった、ということなのであろう。

虚構が含まれることは、創作には本来なにも問題がない。ノンフィクションであるという宣言をしない限りにおいて。しかし、短歌は、宣言がない限り、ノンフィクションとして読むことが前提になりうる形式だ。

だから、それとわかる仕掛けのないフィクションは、読者に「騙された」という感情をもたらしやすい。
逆に言うと、<私>の③④については、虚実入り混じる遊びというのを、短歌はしにくい形式であり、それは、この部分の「誠実さ」「覚悟」がこの形式を研いできた部分があるからだろう。

斎藤茂吉が母親を作品で一度しか殺せなかったのは①②の虚構は許されたが、③④の虚構は当時の短歌文学では不実だったからで、③④の虚構を保証する文体がなかったからとも言える。一方、現在は、苗字苗字みたいなペンネームの作者もいて、③のフィクション化は進んでいる。

それでも、いくつもの人生を演じた寺山修司でさえ、③寺山修司という一歌人の、一冊の伝記化は免れえない。

そうだ、われわれは、一つの短歌の背後に、一歌人を想定する段階から、まだ抜け出ていないのだ。

あと、ちょっと話が変わるけど、写真のコンテストでは、動物の赤ちゃんとか、外国の名所的な景色とかは、禁じ手とまでいわないけど、いかにもなので、避けられたりするとか。かわいいし美しいし、誰でも写真にするからありきたりというか。

新人賞作品でみんな身内が死んでたら、食傷するよね。あまり撃てないから、貴重な弾、というのは、実際、ある。虚構とか誠実さとか、そういうのとは別の話で。

虚構問題についてもう一言。きょうび、短歌のうまい人なんてツイッターで見るだけでも腐るほどいて、うまいだけでは歌人を名乗れない。歌人というのは、短歌の<私>の引き受け方ともいえる。

新人賞は、その点、どこかで「歌人を名乗る覚悟」みたいなものも見極める役割が負われているので、表現の虚構性というよりも、単なる"嘘"を忌避する心理は選ぶ側に生まれるだろうことは想像にかたくない。本質は、短歌のタブーとかルールというより、匿名側のモラルだったのかもしれない。
ーーーーー
短歌に限らず、作者と作品の距離の近いコンテンツは、作品が作者をのみこんでしまって、作者自体がコンテンツになる、ということは読者(消費者)の欲望として、否定できない部分がある。お笑い芸人やテレビタレントでも、その家族が登場することがあるが、あのプライベートを見せることのバツの悪さだって、今ではコンテンツ化していると言えなくもない。

で、やっぱり、どこのだれかさっぱりわからない人の短歌がタイムラインに流れてきても、それを正当に評価することなんて、ほとんど出来ないのだ。性別、年齢、環境、それぞれを、なんとなく想像しながら、それらを、読むのだ。

自選。

長野の画家は長野を描くというよりだんだん山をえがくようなり

ゴミ袋を猫かと思い二度見してゴミ袋だった夜のおはなし

そうそうに若くてチャラい彼のためこの席を辞す、外では宇宙

三鷹育ちの中学生の女子なればまだ渋谷へは母と行くべし

体温を地球に任せイグアナは暑けりゃ怒り寒けりゃさめる

工事済んで跡かたもないプレハブの詰所のようだ、想いの記憶

食物連鎖の牙で食われぬ悲しみが物語とう嘘を生みたり

オペラハウスを建てたる捕虜のときおりに忘れる飢えや寒さを思う

年ふれば玉の手箱の本当の意味が煙りの奥に見えおり

いきものが死んでいきものうるおえる連鎖に似たる思いか慈悲は

バルビゾン、ふるさとをそう呼んでいた君の地方の大雪の報

大統一理論以前もその以後も石にもたれて祈る景あらん

ごくごくと水飲んでいる加湿器のまだ生き物になるにははやく

冗談が意味深みたいになる夕べ、互いにスルーしてはいるけど

柚子二つ浮かべて夜の浴槽に回転させたりして無為香る

美しい廟ほどかなし、残された生者の悔いに似た大理石

朝の道に釘が一本落ちていてそれでもうまく動く世界は

電柱が電線もたず立ちいけり強さにみえて弱さにみえて

2017年1月1日日曜日

2014年12月の62首

雨上がりの眼前が少し眩しくてその眩しさの少しがすべて

ロボットが人間に近くなるよりも思慮なき生気(thoughtless vitality)に人が近づく

ネットワークに懐かしい人が現れていっとき心揺れればたのし

嘘の恋ではなかったわけではなかったと言えちゃうあたり、過ぎれば久遠

不審者のようにサンタがベランダを上がる電飾見れば師走

緑白のかみきりむしに立ちはだかれ大の大人が怯えていたり

懐かしい名前がわれを思いだし思いだされて、生きるはよろし

巡りめぐる卑屈と驕りこの歌の作者もそんな人だと思う

オイルヒーターゆっくり部屋をあたためてそれまで思いながらまた飲む

長野の画家は長野を描くというよりだんだん山をえがくようなり

ゴミ袋を猫かと思い二度見してゴミ袋だった夜のおはなし

底方(そこい)なる力持たねば地獄またアリ地獄なるアリの、♪ままのー

一票の軽さ軽みにいたるまでジャージで投票所の母校行く

お互いを思いやりつつ二人とも桁が見えない二人でもある

耄碌(もうろく)のようだが時間はあいつまで懐かしがらす、もう謝らず

そうそうに若くてチャラい彼のためこの席を辞す、外では宇宙

幸せは父が孤独に決めるべし学習机を夜、撫でながら

音楽は懐古の化石、現在をはけで払ってシンディを聴く

三鷹育ちの中学生の女子なればまだ渋谷へは母と行くべし

小骨多い魚の身をばひと飲みに飲み込むように日常まかせ

目の前の改札を上に跳びながら走って少女は大人らに消ゆ

なにもかも凍る冬ゆえ擬似相関なれど一人が気にかかりいる

スーパーにクリスマスソング流れそめケッと思ってそれも楽しい

本当は違う話がしたいのでテロリスティックな会話にいたる

体温を地球に任せイグアナは暑けりゃ怒り寒けりゃさめる

工事済んで跡かたもないプレハブの詰所のようだ、想いの記憶

天気がよい日の部屋にいて端末のタイムラインも見晴らしがよく

食物連鎖の牙で食われぬ悲しみが物語とう嘘を生みたり

花は咲く」聴くたびに涙ぐむわれのこのかなしみや希望は安(やす)く

記憶には表情よりも闇中の白い三角浮かぶ純情

銀紙を裂いてくしゃっとやるような歌声のああ、チャラっていうの

オペラハウスを建てたる捕虜のときおりに忘れる飢えや寒さを思う

年ふれば玉の手箱の本当の意味が煙りの奥に見えおり

いきものが死んでいきものうるおえる連鎖に似たる思いか慈悲は

バルビゾン、ふるさとをそう呼んでいた君の地方の大雪の報

宇宙より長い寿命を移動する陽子に意味をそろりと載(の)せる

熱帯のイグアナのまるでみずからの寒さの弱さを知らないままの

大統一理論以前もその以後も石にもたれて祈る景あらん

建物の影に割られて白黒のその明暗のゼブラゾーンの

さびしさに遺伝のあれば明るさのうしろのこれは父もだろうか

ごくごくと水飲んでいる加湿器のまだ生き物になるにははやく

冗談が意味深みたいになる夕べ、互いにスルーしてはいるけど

博愛か引きこもりかの極端な選択は実に彼には一歩

長寿への期待はありや残り柿いっしんについばむ雀瞶(み)つ

柚子二つ浮かべて夜の浴槽に回転させたりして無為香る

干物の背に食らいつく時、海面を切り裂くスリルの景浮かび消ゆ

美しい廟ほどかなし、残された生者の悔いに似た大理石

霧雨に蜘蛛の巣白く浮かびおりたましいの通りぬけたるごとく

きっと君を思い出さずに過ぎていく山下夫妻の稼ぐ季節を

生命樹という枝分かれのさびしさを植物はときに交叉(こうさ)するらし

三国志好きの父へと年末に赤兎の名前の酒をひと瓶

反論に同意しながらダーウィンが知りたきことの知りたさに打たる

諦観のいくつかはあのロボットの不気味の谷に似た生悟り

助け合いと殺し合いある人間(じんかん)の意図せずここに来た口ぶりの

感情に消えてゆくなる戦いと知りつつ引き止めたりまではせず

朝の道に釘が一本落ちていてそれでもうまく動く世界は

まだまだらなるかーちゃんの痴呆との応策として、同じ気づかい

電柱が電線もたず立ちいけり強さにみえて弱さにみえて

礼厳の血をまざまざと受け継ぐにあらねど与謝のふるさとに立つ

公園のベンチにまなざしがありて立つときはもう人として去る

階段をなぞって流れくる雨の平面は押され落下は無心

耳の裏にかなぶんぽろり自転車を降りて慌てる夏の思い出

2016年12月4日日曜日

2014年11月作品雑感。

小説とは、文字通り「小さな説」である、つまり、文学とか、たいそうな話なんかではなくて、ちょっとした言葉のつくりものなんだよ、みたいな言葉だったのが、明治時代に、西洋のnovelの訳にすることで、立派な文学になってしまったんだが、長編小説って、長いのか小さいのか、よく分からないよね。

短歌というのは、これまた、明治の文学運動の中で、和歌ではなく、短歌という文学になってしまった言葉で、「短い歌」なんだけど、長歌に対しての短歌というより、使用文字の「短い」という意味になっている。(長歌に対してはもともと反歌であるし)

和歌って言葉は、「この国の歌」という意味であり、あきらかに、「漢詩」を意識して生まれた言葉であるので、短歌にも、明治の、対外的な意識のなかで、「短さ」を逆手にとったプライドがある言葉なのかもしれない。

所詮短い歌だなあ、という気持ちこそが、短歌的なのかもしれない。

自選など。

口をぱくぱくさせては歩く老人の霊薄(うす)らえば機構あたらし

消えていい写真を撮ってライフログは究極のわがひつまぶし食う

オフィーリアも日本語ならばどんぶらこどんぶらことて流れ揺蕩(たゆた)う

やくたいもないこっちゃなどと言い捨てて店出るように秋をはや去る

足首の太き女を走らせてピカソが描く古代の偽造

連鎖する事物の不思議に子は酔いてしりとりはりんごゴリラはラッパ

民主主義は素人がそれを選ぶこと、紫陽花は雨に濡れて色増す

本人は知らずわざわざ言うこともないが若さは光るってこと

通勤のときどき見しが今は見ぬ薄倖そうな一重の美人

草莽(そうもう)のいや莽蒼(もうそう)の郊外のエノコロの生えた国道さびし

夕日差すテーブルに林檎褪(あ)せまるで塚本邦雄的ひややかさ

米塩(べいえん)のひとつぶもなき貧困はあらねどコンビニ明るく遠き

新しい長靴買って雨を待つ少女のごとし、ストーブポチり

 ※この「ポチる」(ネットで注文をする)は、あと何年使える動詞だろうか。

夢にても古書店でこの本を選(えら)み購(か)う直前に棚に戻せり

モンキチョウがしばらくわれに並走し異なる論理でそのまま去れり

露悪にも露善にも飽き、ネットにもサイト枯れゆく秋の来るなり

言い切っては美しい日本語でないかもとかもしれないといえるともせず

サザンでいうとアルバムの中に時々の桑田が歌ってない曲の感じ

2016年12月3日土曜日

2014年11月の60首

精神の痛みも痛み、耐えながら噛むくちびるは白き表示の

人工と自然のじつに猥褻で率直な景をみたき霜月

野良猫の小さい方は飛び跳ねて喜んでいるかゆい世界に

口をぱくぱくさせては歩く老人の霊薄(うす)らえば機構あたらし

球に住む生き物なので地揺るるを理解はするがもういやである

責任感を半分にして傾(かし)ぐほど世界はお前のせいじゃないから

消えていい写真を撮ってライフログは究極のわがひつまぶし食う

落ちているアイス棒にも蟻の来ぬ世界はさむし、あい嘗(な)めなくば

人間のさとりはたかが知れていて生を愛せよ死を愛すまで

オフィーリアも日本語ならばどんぶらこどんぶらことて流れ揺蕩(たゆた)う

食欲の否体重の危急なる秋(とき)ならぬ秋(あき)、空腹に耐う

真白なる心の皮で隠しいる、餃子の餡を包む感じで

人生に向きあうごとき丼のもう少しちゃんと噛まねばならぬ

世界にひとつだけかもしれぬ花枯れて緑も減ればセピヤへ至る

やくたいもないこっちゃなどと言い捨てて店出るように秋をはや去る

足首の太き女を走らせてピカソが描く古代の偽造

理屈ばかりが時を得顔の時代ゆえ感情薄きヒロインぞ美(は)し

進むのが壊すのに似てこれ以上行きたくないと口には出さず

先ほどの見過ごされたる赤色のゴリラばかりの毎日を生く

真実の言葉を君は待っていて、われの番かはふりみふらずみ

連鎖する事物の不思議に子は酔いてしりとりはりんごゴリラはラッパ

民主主義は素人がそれを選ぶこと、紫陽花は雨に濡れて色増す

ポエティックが耐えられないと言うに言えず詩人は文字を書いては消して

本人は知らずわざわざ言うこともないが若さは光るってこと

世界から取り残りゆくめじるしのトリコロールのマフラーぬくし

生きることの土性骨弱きわれわれの承認自殺の呼び名いろいろ

恥部のごときあかき葉落とし植物はわれわれにない秋の姿す

年波に、削られてゆく白砂の松並木歩くわれは肥えゆく

通勤のときどき見しが今は見ぬ薄倖そうな一重の美人

草莽(そうもう)のいや莽蒼(もうそう)の郊外のエノコロの生えた国道さびし

夕日差すテーブルに林檎褪(あ)せまるで塚本邦雄的ひややかさ

当然のように実際とうぜんに肩に載る鳥ちゅんという顔

米塩(べいえん)のひとつぶもなき貧困はあらねどコンビニ明るく遠き

舌の上で海苔を破(わ)りつつ萌(きざ)しくる思いを酒で泳がせてみる

新しい長靴買って雨を待つ少女のごとし、ストーブポチり

灘のごと押し寄せくれど飲み込まずかくして保(たも)ちいたるかたちは

CM上の演出ですと右下に書いてあるがに葉の降る秋ぞ

一ダースでも君を飲み干すと歌うのを彼女の細い声を朝聴く

渋滞がうれしいと歌うポップスがあった気がする、渋滞ながし

知はここで食材となり大食いのファイトのような議論を眺む

夢にても古書店でこの本を選(えら)み購(か)う直前に棚に戻せり

モンキチョウがしばらくわれに並走し異なる論理でそのまま去れり

われわれは時流なればか未来には原発増やせの声たかまらん

ブルースに合わぬ酒にも酔いなずむかなしみが青になるということ

ポリューリョンの意味ぼんやりのだらだらの半身浴は冷えつつ温(ぬく)し

こぎとえるごすむこともなく端末を指でなぞっている子の現世

ピリピリと電気に覆われたる星の表面に生(あ)れ表面に消ゆ

何年もさみしさに身を曝されてさみしがり屋はさみしく酔えり

世界でいうと濁(にご)りらへんにいるわれがまだ死なないと決意しちゃうか

髪洗う女の絵だが、悲しみに似た愛のことが伝わってくる

モノレールのまなざしは鳥、表情のちょうど見えない距離で見る人

夢でみた彼女は誰だ、恋までの会話を氷水飲みながら

雨の日のマックにしのぎたる人の疲れも少し湿れる時間

露悪にも露善にも飽き、ネットにもサイト枯れゆく秋の来るなり

郷に入れば郷に従う上海の姉ちゃんといてグローバルなのか

言い切っては美しい日本語でないかもとかもしれないといえるともせず

サザンでいうとアルバムの中に時々の桑田が歌ってない曲の感じ

新しい曲が賛美歌っぽくなり賛美したきものわがうちにありや

鳥よわが肩にて満員電車から職場までちょんと遊びにくるか

植物に光呼吸のあるを知り闇呼吸とか調べるお前

2016年11月6日日曜日

2014年10月作品雑感。

たしか吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、言葉というものを、おおきく、おーきく、「自己表出」の言葉と「指示表出」の言葉に分けていたと記憶している。

たしか(たしかばっかりだ)、一樹の樹の図があって、枝葉の部分が「指示表出」幹の部分が「自己表出」とあったと思う。手元にないのでわからない。テルヤは手元に何ももっていない。

要は、人とコミュニケーションを取る時に使うツールとしての言葉が「指示表出」、外界とコミュニケーションを取るものではない、ツールではない言葉を「自己表出」と呼んでいたと思う。

詩というものが、あれはたしかポール・ヴァレリーだっけが言うように、歩行に対してのダンスであるようなものであるとき、短歌というのもまた、一読してすぐにわかる支持表出でなく、自己表出の言葉として、しかし届く人を探して立ち続けるものなのだ。

(過去の作品は、自分でもよくわからないものがある。でももっと過去になると、それはわかるようになるかもしれません)

自選など。

運命の出会いに飽きて犬猫はガラスケースに背を向けて寝る

子と母のやさしさにみちたなぞなぞを時間の終わりのように聞く午後

音程の少し違える鼻歌のCMソングを聞きつつ足れり

近くまで来ている河野通勢を観たいと思い観ぬかもしれぬ

日常のぎゅっと縛った粗縄の死はちぎれるかほどけるかなる

いにしえの人が見ていたゆっくりと月を呑み込み吐き出す虫を

毎朝をマックで過ごす老婦人ふくらはぎ長く揉んでいるなり

男の腹と女の胸に挟まれて電車で、来世紀は涼しかれ

合宿の夜の洗面所の合わせ鏡に無数のわれがみどりにかすむ

明滅するデジタル時計の真ん中のコロン、脈拍に似て親しき

見つけたる君のブログを読みすすみだんだん地震に近づいていく

レイヤーをひとつ落とせばいのちとはいまだ生き死にと飢えばかりなる

感性をたいらげてぼくは不安げに森さやぐ意味がもうわからない

生き残ってしまったかれのウェブログにきづなの文字は現れずなり

死が近くないこと怖し、薄目にて慈しむべき世界のときに

手招いて揺るるすすきが沿道にそうして秋は呼ばれて去りぬ

年降れば愛しい人のくびすじにいぼ凝(こ)りておりいとしくふるる

宇宙船が壊れてやがて来(きた)る死の夢から覚めて長い放屁す

バカとして生まれただからそのままでさわやかに死ぬる手などありの実

2016年11月5日土曜日

2014年10月の62首

目を上げて月と間違う電灯のこれでもいいかいずれ届かぬ

運命の出会いに飽きて犬猫はガラスケースに背を向けて寝る

右肩から左肩へとついてくる飼い鳥にわれは柔き樹ならん

嫌味あびて匂えるごとく辞してのち思わず鼻を二の腕に寄す

子と母のやさしさにみちたなぞなぞを時間の終わりのように聞く午後

戦略的自己犠牲をえらぶ顔としてよく出来ておりメガザルロック

音程の少し違える鼻歌のCMソングを聞きつつ足れり

鉢の水を捨て、替え歌にアカシアの「このまま枯れてしまいたい」なんて

メキシコの走りつづける民のいるドキュメンタリー観つづけている

happyの語源にhappen、みなもとを辿れば水はたしかに光る

近くまで来ている河野通勢を観たいと思い観ぬかもしれぬ

幸いと辛いを決める一本が横棒であることを思いき

日常のぎゅっと縛った粗縄の死はちぎれるかほどけるかなる

従容とどこへ赴くばらばらとまばらにけぶる雨音のなか

夕方の木犀の香に包まれてそのまま星を去りせばたのし

茄子の茎色を重ねて赤となり青となりして黒色(こくしょく)に見ゆ

いにしえの人が見ていたゆっくりと月を呑み込み吐き出す虫を

桑の葉が真白き繭となる不思議、一心につむぐことの因果の

連絡通路の展覧会のポスターにその感動のあらかたを終う

植物はだいたい口に入れられてうまからざれば薬とて呑む

寒くなりはじめての冬を前にして暖かい家を思うごきぶり

一方的に知りたる人に会釈して大正ころの短編を憶う

毎朝をマックで過ごす老婦人ふくらはぎ長く揉んでいるなり

先にいてわれの来るのを待っているお前は未来の顔したる、過去

男の腹と女の胸に挟まれて電車で、来世紀は涼しかれ

秋冬のスボンはゆるくやせたということでは決してないがうれしき

青春の書として論理哲学の断言を微笑ましく読めり

公園のブランコだけに日が当たり人間不在の一日(ひとひ)はじまる

じゃれあってうるわしうるさき学生も将来にくらき孤独を知るか

合宿の夜の洗面所の合わせ鏡に無数のわれがみどりにかすむ

明滅するデジタル時計の真ん中のコロン、脈拍に似て親しき

初夏の髪はもうながながと床屋談義の代わりのデモは秋風冷える

見つけたる君のブログを読みすすみだんだん地震に近づいていく

照らされて消えゆく露の聞くたびに薄らぐようでたとえばきづな

レイヤーをひとつ落とせばいのちとはいまだ生き死にと飢えばかりなる

少しずつ気持ちを殺し死にたればどの子じゃわからんはないちもんめ

ふかいかなしみをしづかにうたふスタイルは読者作者も心地よかりき

感性をたいらげてぼくは不安げに森さやぐ意味がもうわからない

生き残ってしまったかれのウェブログにきづなの文字は現れずなり

現在はまったく遠く信号の意味より先はない世界まで

死が近くないこと怖し、薄目にて慈しむべき世界のときに

煩悩がわれをめくりつめくりつつ空気入(い)るりて笑みゆがむなり

おっさんの見る怖い夢は幼少のそれに演出増すくらいにて

現代も予言が欲しい生き物が中心を離れ経回(へめぐ)っている

手招いて揺るるすすきが沿道にそうして秋は呼ばれて去りぬ

中断のまま終わる物語のようにケーキナイフで押しちぎるパン

年降れば愛しい人のくびすじにいぼ凝(こ)りておりいとしくふるる

永遠を凝視している眼差しで君は真白き川を見ている

昼顔が豪華に壁を這う家のアコーディオンの流れいる路地

今世紀みんなみごとに隠れおり詩心はもう枯れながら鳴る

平日を少し遅れてベタベタと母に纏わり通う子のあり

明るきが隠れれば夜、毎日をかく黙々と夜明けへ進む

宇宙船が壊れてやがて来(きた)る死の夢から覚めて長い放屁す

バカとして生まれただからそのままでさわやかに死ぬる手などありの実

荒野切り開いて男はたのしかり三日伸びたる髭剃るときも

音楽の方のスピッツ流れきてもう感傷が音の邪魔する

朽ち果てた茄子を除いてあたらしく土をほぐせり世界のごとく

縁のない女性(にょしょう)にあれば賽銭を放るがごときさきわいたまえ

鎌首をもたげているのはゆらゆらとそれが希望であることはなく

こんな時に役に立たないむらさきはボロカスミソカスクロッカスだよ

春菊天の酸い苦味噛み蕎麦すする、味覚はわれを許可するごとき

北ほどに寒しと思う生き物のブラキストン線冬景色みゆ

2016年10月2日日曜日

2014年09月作品雑感。

9月というのは、テルヤにとって、アカウントが誕生した月であるので、なにかそわそわする感じがあって、あたらしいこと(短歌的な)をやってみようかなと思ったりするのだが、やりたいこと、できること、なすべきことのバランスがうまく調整できず、結局なにもしなかったりするので、そういうそわそわ感である。

この2014年は、まだうたの日もやっていず、この月のツイート数が72で、歌の数が70だから、短歌以外のツイートは2つ。9/10の「毎日つくって2年になった。ゆっくりとうれしい。いつも読んでくださる方に、感謝しています。」と、フォローした方からの挨拶の返事。今よりもずっとbotっぽかったに違いない。ずっとぼっと。ほっともっと。

自選のような、自註のような。

水底でほほ笑むような刑なりき或いはあれだ、ゼリーのプール

 ※ゼリーのプールって泳げるんかな。

どの虫も生きようとして無数なる牙むき出せる、慈悲となるまで

 ※生き物が生き物を食う、あるいは食われるというのは、けっこう慈悲的だ。

レゴリスに覆われて君の惑星は息かからねば暗く遠のく

 ※レゴリスは、岩石の表面を覆う堆積層。人はみなそういう惑星をもっている。

何か僕に出来ることなど「ないですよ」向こうも予期せぬ強い調子で

 ※声にして感情がはじめて本人にもわかるって、あるよね。

死ぬこわさが三(み)つほどあって日によって程度違いていずれもこわし

 ※死ぬのが怖いって、いろいろあると思うんだけど、3つくらいはあるよね? たとえば、死ぬ痛みの怖さとか、死んだあと自分が世界にいないっていうこわさとか、死んだあとどうなるかわからない怖さとか、死んでも世界にはちっとも影響がない怖さとか(4つやん)。もっとあると思うけど、ふつうあまり掘り下げないけど。

生命は進化というか無機物の慈悲のおこぼれみたく流れて

 ※上でも慈悲についてうたってるけど、生命って、無生物の世界の慈悲があって存在できてるよね。無生物の慈悲ってなんやねんという話だけど。

アーモンドを奥歯で噛みてきしきしとやがて悔しき敵(かたき)のように

クレヨンを途中で折りて引き抜いて包み紙ついている方をくれき

 ※上の二つは、まあ感触の歌ですね。クレヨンに付いているぱさぱさの紙、クレヨンを折っても一緒にやぶれない感じ。

トルストイをト翁と呼びし日本の文人のその親しみ遠し

 ※シェイクスピアを沙翁とかね。文字数もあるんだろうけど、あの尊敬と親しみとなれなれしさ、今書けないよなあ。

「夏休みが終わるのを嫌がりながら給食を僕はほっとしていた」

 ※貧困の問題は、やはりどこかには存在しつづけるのだろう。夏休みは、給食、しっかりした食事がない期間、とも言える。

復讐譚として読む『国家』、巻物の中でも嘲笑される師描く

 ※プラトンの『国家』を読むと、目を閉じてソクラテスとの日々を思い出すプラトンの絵が浮かぶし、そういう感情が文章の底流にある。

もし鳥よ僕の不在に気づいたら小首をひとつかしげておくれ

 ※忘れないのもいいけど、忘れるのもいい。

文化滅ぶ、川面の端に渦なして澱みたるもの流るるごとく

 ※どばーって水流すと、よどみはなくなるけど、よどみって、本当に不要なのか。

後になって切なく思い出されたる要領を得ぬ夜の電話は

 ※その時にわかるというのは、それはそれで錯覚なのかもね。

夢の中も変わらぬわれの日常に懐かしい人が邪魔せずにいる

 ※脳はそういうシーンを、たぶん気まぐれに組合せては捨ててゆく。ひょっとしてとても大切なシーンが出来る場合もあるのに。

時が来ればすくりと伸びてその先が染まりてひらく群れまんずさげ

 ※今年は曼珠沙華まだうたってないような。うたわないという選択もありだな。

なにかこう引きちぎられているような痛みのあとのような朝雲

過ぎ去ればまた一年は文字のみの、朽ち木の匂い、かぶとむし、夏

 ※この辺は季節感の歌ですね。

エンディングなきゲームほど明日にでも理由なく止む生に似てゆく

 ※最近のゲームは明確なエンディングがなくて、それはつまり、いつでも止めうる、という意味でもある。

本当はもう知っているデュシェンヌの微笑を与えられぬふたりは

 ※デュシェンヌの微笑というのは、笑おうとして出る笑いでなく、漏れ出るような笑みで、使われる筋肉が違うらしいのね。

腐った匂いの腐った街にいるゆえに腐った人になるすなおさよ

 ※逆は逆で怖いけどね。松平定信かよって。

2016年10月1日土曜日

2014年09月の70首

水底でほほ笑むような刑なりき或いはあれだ、ゼリーのプール

どこまでを何までをわれは書きつけてそのふところへほどけてゆくか

行為から存在へ至る老害のラオハイと不意に中国読みで

銀色のその髪に似て輝きぬスポーツカーに乗りはにかまぬ

ノスタルジーひと盛りいくら、昭和歌謡はこんな未来のためにか甘し

心象の年齢を同期する先にこの人を思う、師の字を思う

どの虫も生きようとして無数なる牙むき出せる、慈悲となるまで

意識低いどころかもはや無意識系中年の吐く正論こわし

レゴリスに覆われて君の惑星は息かからねば暗く遠のく

何か僕に出来ることなど「ないですよ」向こうも予期せぬ強い調子で

死ぬこわさが三(み)つほどあって日によって程度違いていずれもこわし

感情の確証はきっと得られなくその満面の微妙な笑みの

芋焼酎(いも)の甘さとデュフィの赤に卑屈なる心なぐさめられながら酔う

メタのないライフストーリーに動じつつ参考としてはひそかに外す

生命は進化というか無機物の慈悲のおこぼれみたく流れて

アーモンドを奥歯で噛みてきしきしとやがて悔しき敵(かたき)のように

寂しさの満喫といえグラウコンへのかの説得が心に入らず

謙虚さに気がほぐれつつ何周目のことであろうか訊きたくなりつ

ためのゆえの、ためのゆえのと両の手で水を掬うように心をさだむ

水しぶきの中から君が現れていつかどこかの記憶のごとし

クレヨンを途中で折りて引き抜いて包み紙ついている方をくれき

土の匂いを臭がる子にも驚いてアスファルト=プレパラートの家路

雨のなかのみずうみは白くうっすらと無音と思うまで雨を受く

性善説の悪人と性悪説の善人と表情のその苦さにて似つ

中秋の名月は雨、脳裏には前々のまだ成らぬ満月

トルストイをト翁と呼びし日本の文人のその親しみ遠し

言い切ったはずだが舌の違和感は虫歯のようにぐらぐらしおり

「夏休みが終わるのを嫌がりながら給食を僕はほっとしていた」

メロディは知らず母より教わりきつくし誰の子、雑草を抜く

いつの日か叶わなくてもいい夢に国際列車の寝台に寝る

復讐譚として読む『国家』、巻物の中でも嘲笑される師描く

書簡詩の節句を読みて韻律に宿りしものの痕跡かすか

穴という穴から子孫生まれ出て身を朽(く)ちて神となるのもたのし

経験を騙し取られて憤するも時間とは地面剥(は)がし行(ゆ)く球(たま)

もし鳥よ僕の不在に気づいたら小首をひとつかしげておくれ

汲めど尽きぬもののあふれる芸術のレイヤを見おり位置ゲーのごと

ジンゴイズムの主義の主軸は排外か愛国かしばし目が止まりいて

有名人でもないのに歩く東京のテレビと同じ店を見渡す

"い"の"ち"とはとうとかりけり、なぜ人を殺してならぬかなど付するほど

やる気さえネガティブな言で示すのでその目と声を聴かねばならぬ

霧に見えぬ不安もあわせ夢のように進みつつ名前叫んでいたり

文字だけが思いの先に行かぬよう詩になりたがる言葉を叩く

光熱費かからぬほうの青春を過ごしていたが大差なき生

生命進化の末裔についぞ遠からん擬人化の弛(ゆる)みなきコモノート

マジョリティへの欲求として独立はありけむ、やがて苦しくならむ

文化滅ぶ、川面の端に渦なして澱みたるもの流るるごとく

癒すのが意味か音かもあいまいに涙を出せば意外に泣けり

人生のよしあしをどこで決めようか過去でも今でも未来でもなく

斜め上から見下ろしている人生のひとつひとつのシーンが、嘘だ

木工玩具の球のストンと納得の因果があれば人生はよし

後になって切なく思い出されたる要領を得ぬ夜の電話は

夢の中も変わらぬわれの日常に懐かしい人が邪魔せずにいる

時が来ればすくりと伸びてその先が染まりてひらく群れまんずさげ

宇宙人いるわけないが人間は夜に小さい光を探す

なにかこう引きちぎられているような痛みのあとのような朝雲

過ぎ去ればまた一年は文字のみの、朽ち木の匂い、かぶとむし、夏

話終わりて「おわり」と付ける剽軽に一同の肩は少しほぐれて

過ぎたので遅かったのでその過去を意味を変容するべく勇む

case of you を聴く為にあと一杯をトクトクと注(つ)ぐ、秋の夜長に

性自認に悩みいしことを就職の決まりし姪にはじめて聞けり

大五郎サイズのウイスキーを購(か)い割って飲みおり、少し寂しき

巻き込みを逃れるためのレイヤ化と謂(い)う君の目のミサントローポス

親ひとり子ひとりの旅の心地して浮舟のような部屋にて抱けり

エンディングなきゲームほど明日にでも理由なく止む生に似てゆく

饒舌のあとにさびしき、テーブルの食べ散らかしたゴミ手に包み

本当はもう知っているデュシェンヌの微笑を与えられぬふたりは

久しぶりに強く酔いたる鏡にて見知らぬ顔よ、お前は誰だ?

腐った匂いの腐った街にいるゆえに腐った人になるすなおさよ

人ばかりなる新宿のホームにてあきつがひとつ低くさまよう

確信は不抜にいたりわが生のかたちみちゆきひとつと成せれ

2016年9月3日土曜日

2014年08月作品雑感。

2年前の8月は毎日3首作ってたみたいですね。ログから拾うのが大変だ。

昨夜、ツイッターの短歌クラスタの方のキャスに参加しながら、話題が題詠になったのだが、題詠をどのように考えているか、というのは、人によって異なるようだ。

戦後、短歌が文学であろうと攻めていかざるを得なかった時期は、なんというか、題詠という、歌題を誰かから与えられて、それを上手く消化するような技芸的な側面は、かなり軽んじられたであろうことは想像に難くない。湧き出てくるテーマ、あるいは、狩りに赴くような戦闘的な作歌姿勢、そのようなものが是とせられ、日常のなかでふと思うような、果報は寝て待っているような、小市民的な待ちの文芸、高齢者の余生のたしなみのような趣味ではあってはならないような、そういう前衛さが若者を惹きつけていた側面というのはあったと思う。

でも、逆説的、と言ってよいかどうか、短歌は、かつての上代の「ハレ」の文学でなくなって久しい現在、機会詩として、じつはきわめて効果的な形態なのかもしれない。

連作して、まとまった思想を述べる形式なんかよりも、けっきょく作者=<私>の諒解の中で、日記のような微細な発見、表現のあや、題を消化する技芸が、面白かったり、うけたりするんだよね。

あ、あと、題詠というのは、意外にセラピーの側面が強いような気がしている。シュールレアリスムの自動筆記、とまでいかなくても、題のために表現を練るなかで、自分の中で思いもよらない表現が生まれ、それが、悩める自己を相対化する側面もあるようだ。
題詠をそのように評価する人を、何人か知っている。

自選とか感想とか。

おおこんなさみしい赤ちょうちんにまでレリゴー流る、流されている

  ※2年前はアナ雪の音楽流れてましたねー

脊索が新参だった長い春未来の謳歌の夢を見るなり

かわいいの価値たちまちに移譲されその時に君の近くにいたし

ありふれた光あふれた明日へと器官は向かいたがると思(も)えり

妄想も年を経るれば何かこう偉大なものに化けたり、せぬか

生まれきて居場所をずっと探したる野良猫今日は現れずなり

もう少し人間の形していんと思う夜なり鏡に映れば

直前の一縷の望みを思いいき閉じ込められて沈む巨船の

  ※そういえばこのころ、韓国で修学旅行生が船に沈む事故がニュースを騒がせました。時事はリアルタイムで歌うことがあまりないので、しばらく経ってからかもしれません。

変則というまっすぐを孤独にも謳歌しているかうもりである

もう二度と離れぬメタか「悲しすぎワロタ」と云いて哀しくおかし

「はらじゅくうー、はらじゅくうー」と明け方の自動放送が原宿に告ぐ

本心を隠すためなる英語とう日本的なる使用法にや

傘の先でコンクリートを響かせてそのドメイン(域)の返事を待てり

真夜中に母を思いて涕泣す、感傷的ということでいい

ブロッホはこんな孤独なキリストに天使を添えて、孤独極まる

原初から女はエロしクリムトがアーチに描くエジプト乙女

意識淡い母の手を取りゆっくりとごくゆっくりと新宿をゆく

色彩というより光の量として金色多く描く世界は

  ※金色って、色じゃなくて、光量の表現だよね、という歌

ブッテーをぐるっと回し休みたり川から見上ぐ人間の街

  ※ブッテーというのは、漁具ですね。

人間は燃料に似て山手線は駅ごとに人を入れ替え進む

不在にも慣れる心ぞ、路地裏の涼しいというか消えきらぬ冷え

この水はいつの雪どけ、伏流の闇をしずかに沁み流れきて

波の上の時に逆巻く渦としてその尊きを生とは呼べり

  ※生という現象は結局なんなのか、というのをエントロピー的に考えると、こういう表現にならない? 

極東の島国の若き制服の娘もムンクは近しきてあり

  ※日本人ムンク好きだよね。でもけっこう宗教的だぜ、彼。

遠日点は過ぎておろうに粛(さむ)くなれば思う星には距離が要ること

グレゴリオ聖歌を流す理由などぽつりぽつりと話すほど酔う

痛々しい年代などはないのだとはにかんですましてはにかんで

2014年08月の93首

おおこんなさみしい赤ちょうちんにまでレリゴー流る、流されている

形までゆがんでからぞ人間の個性、すなわち幸と不幸の

悪人を滅ぼさずして宇宙とは善人を置く規則のごとく

弱りきってきたない猫が家に来てかわいそうだが助けてやれぬ

風呂の湯でシャンプーを流し頭ごと小動物の死を泣き流す

たい焼きの少し経ちたるやわらかくあたたかく絶大なるうまし

妄想は頑固なよごれ、十ごとにタイルを擦(こす)り落ちずまた十

生きているものごとのたぶん一部にて残酷は少しずつ変化する

音楽の波形のようにわが価値が揺れている、上下対称にして

脊索が新参だった長い春未来の謳歌の夢を見るなり

かわいいの価値たちまちに移譲されその時に君の近くにいたし

わくわくもどきどきもない義務的なコールドスリープのように明日へ

夥(おびただ)しい蚯蚓(みみず)歩道に畝(うね)り来て潰れて干(ひ)りて蟻の餌(え)となる

椅子の上に膝たてて座し汗ばんで団扇片手に休日を読む

眠れずに輾転反側する我の体内アルコールが過去を呼ぶ

さよならを言うこともないさよならのはじまらざれば終わることなし

想念は無形のくらげ、顔に着いて音声として口より出でる

ありふれた光あふれた明日へと器官は向かいたがると思(も)えり

妄想も年を経るれば何かこう偉大なものに化けたり、せぬか

貝葉に言葉を写し我の後も残さんとする人の手跡よ

ポテンシャルもおそらくわずか、毎日のぽてんしゃらざる課業をこなし

生まれきて居場所をずっと探したる野良猫今日は現れずなり

擬人化する地球が怒る汚染図のその奥の汚染が伝わる不快

文字のない希望と文字の絶望を闘わせいる、今日は希望が勝ちぬ

電気の頭脳に水のコンピュータの我がコマンドを打つ、答えは速し

現実はクサいセリフを吐くことでしのぐも後で二の腕を嗅ぐ

眠りつつ恢復しゆくたましいの確かに配るべき世にあれば

ポケットにひとにぎりほどの尊厳をもてあそびつつ生きてありたし

特急が通過する時吹く風の心地よき春や秋にはあらず

もう少し人間の形していんと思う夜なり鏡に映れば

先見を持たぬ男はもくもくと革命までの世界を積めり

直前の一縷の望みを思いいき閉じ込められて沈む巨船の

経験者募集の張り紙の下で我を見て猫が逃げようとせず

変則というまっすぐを孤独にも謳歌しているかうもりである

ふるさとをかなしく見ればふるさとは悲しい男をただ入れてゆく

もう二度と離れぬメタか「悲しすぎワロタ」と云いて哀しくおかし

「はらじゅくうー、はらじゅくうー」と明け方の自動放送が原宿に告ぐ

本心を隠すためなる英語とう日本的なる使用法にや

人生に目的があるようにないように悲惨な死者のニュースが流る

水割りを間違えて水を水で割り飲んで気付けり考えおれば

傘の先でコンクリートを響かせてそのドメイン(域)の返事を待てり

真夜中に母を思いて涕泣す、感傷的ということでいい

一億年われは爬虫に追われきてまだ恐ろしく共存しおり

ぼつぼつとさみしさの降る夕まぐれ傘差してそれを避けてもさみし

身の肉のうまきところを切り取って差し出せばそれを平然と食う

歩き煙草の馬鹿を追い越しその先にまた馬鹿がいるわれの中では

ブロッホはこんな孤独なキリストに天使を添えて、孤独極まる

キュレーターというよりいわばフィルターの小アイコンが端末に棲む

誰か死んだかしらぬ電車の遅延分足早に歩き流れる汗ぞ

壁がいつか道になるとはリングシュトラーセに祈りのような葉漏れ日

風にたつ髪をおさえて空港という港(みなと)にとって時化ている空

ディテールの針で掘る時ゆびさきの腹にかすかに悲の音(ね)を聞けり

原初から女はエロしクリムトがアーチに描くエジプト乙女

人格を問わずともよい今様の短歌であるが読む人はいる

部屋で見る線香花火の幻想の為に小さめのバケツを探す

先人は同じ苦悩を持ちながら言わずにゆける、歴史はいらぬ

イヤホンの僕のうしろに声がして振り向く、おお白(しろ)百日紅花(ばな)

シャクシャインの仇を討つ夢、日本人だがシャモではないとわれを決めつつ

意識淡い母の手を取りゆっくりとごくゆっくりと新宿をゆく

色彩というより光の量として金色多く描く世界は

古綿のようなる雲の下の町、記憶はいつも冬の駅前

風景画の風景を胸に押し入れて君に会いたし、役薄ければ

センチメントは弱々しさを隠すほど屹立なんて語を今使う

悔恨の涙は仰向けなるわれの耳へと流る、唇が開く

ブッテーをぐるっと回し休みたり川から見上ぐ人間の街

夏なのに駘蕩に近き心地して背を預けいる、思うこと多々

世が世なら省線電車に揺れている部屋によこたう空腹男

ポエジーでやりすごそうとする生の伐り過ぎた枝の目立つ心地の

一応の根拠はないがこの労を終えれば暦の下も秋かも

どうかしてこんなに酒を酔うのかを聞かれずなりきこの一人酔う

人間は燃料に似て山手線は駅ごとに人を入れ替え進む

音のない暴風の尺を飛び越えてヘリオテイルのふさふさと揺る

思いたり、花火が空を割る時の己が成否を問わぬ呵成を

溶解の実験で混ぜている時の、中年の目は濁るのならば

不在にも慣れる心ぞ、路地裏の涼しいというか消えきらぬ冷え

左衛門(さえもん)がゼイムとなりしこの家の彼を屋号で呼べばはにかむ

無人島の一枚として選び終え無人の島に立つまで聴かず

生き場所か死に場所にせよもう少し男は明るくならねばならん

この水はいつの雪どけ、伏流の闇をしずかに沁み流れきて

波の上の時に逆巻く渦としてその尊きを生とは呼べり

信念を投げてからではそののちに何万の言を積んでは載らず

遠景に四五本の高き塔ありて手前は水の曲がるこの丘

いやしくて卑怯に生きる人間も尊いという山中の鬼

ここからはわかればかりだわんわんとなきたきこころをポケットにいれ

極東の島国の若き制服の娘もムンクは近しきてあり

被虐なる輪廻輪廻を転がりて君に遇いたり、かたじけがない

この息はやっちゃいけないため息で強引に深呼吸へと替える

エドヴァルドムンクは病んでいたりけり彼の属する世界に沿いて

人と飲んで酔ってひとりの帰り道みじめへ踏み外さぬよう必死

遠日点は過ぎておろうに粛(さむ)くなれば思う星には距離が要ること

グレゴリオ聖歌を流す理由などぽつりぽつりと話すほど酔う

痛々しい年代などはないのだとはにかんですましてはにかんで

蛮勇も勇には見えて臆病も深慮に見えて谷を登りつ

2016年8月6日土曜日

2014年07月作品雑感。

  思春期と晩年は本を読みながら異なるものぞ読むことの意味

休みを利用して地方の文学館に行くと、その地方の作家の足跡や、直筆原稿があったりして、なんだか懐かしい気分になることがある。
なんというか、「文学」だったものが展示されているなあ、という郷愁だ。

本の読み方も、価値も、変容しつつあるもので、とりわけ今は情報の拡大伝達速度が速いので、思念の再現装置としては、本は第一線を退きつつあるようにみえる。

先日、アマゾンのキンドル読み放題というサービスが開始され、音楽や映画のように、本も月額で自由に読めるという環境ができつつある。

電子書籍とは、一口に言うと何か。これは「本のパッケージングにレイアウトされた、ウェブ情報」のことだ。逆に言おう。ウェブとは、「紙媒体の制約から解放された視覚及び聴覚情報」のことだ。本と、電子書籍と、ウェブとは、呼び方を変えた同じものといえる。

携帯電話は、もともとはトランシーバーの延長の技術だが、電話というそれまでからあった名前にすることで、使い方がイメージしやすくなった。

ブログは、文筆行為だが、ブログとか、日記という名前を付けることで、だれもが恐るべき量の思念を記録し留めている。(文学館で展示する直筆原稿は残らないけどね)

なんの話だっけ。キンドル読み放題は、また一つ、本というものの変容を推し進めるような気がする。


この2014年7月は、11日から、1日3首を掲載しているので(おそらく1ヶ月限定)、83首となっている。
自選しつつコメントがあれば書き。

緑白のトマトほのぼの赤むころひとつの想い終わらんとする

やがて差別失いし世に蛇使いの娘のごとき祝福なけん

  (蛇使いの娘というのは経典で言う竜女のことです)

震災詠の詩の部分こそうつくしく成れば記憶の瓦礫が増える

こんな日をあと一万も繰り返し百日ほども覚えるならぬ

風が葉の裏まで舐めて一盛りの林を全部ゆらしてゆけり

明るさの満ちる駅前パイプテントの風船の影も赤い色して

四十男のきわまる孤独の正体はその類似せぬ来し方に因る

千体は並んだ浜か今も弱く進まんとして戻さるる波

誰からも応援されぬ苦闘よしジンジャーエールでくしゃみする夏

淋しさを埋めてはならぬ、夏の夜は芽吹きも早く生長しるき

月額の忠誠心が言動に出る後輩をやさしく見おり

要求から供与とならんデモまでは見れぬと思う、国道を抜ける

少しくは明瞭となる二回目の読書のような寂しさならむ

飛天のような美しさではなかったと星々を知る、科学のせいで

焼米を噛み西洋の書を読めど鼻腔のあたり上代香る

思い立たねば吉日ならぬ日が続き未活動時の脳は休まず

バイパス沿いのパチンコ店も荒れ果ててタンブルウィード(回転草)のまぼろしも見ゆ

若い人とは競えないだって世界とはその若いのが好きであるから

復興は忘れることに少し似て思い出すがに満たされずなる

古書店でkabaleの訳の違いたるタイトルに長く悩みきかつて

  (kabaleはドイツ語で「たくらみ」なんだけど、「たくみ」と訳しているのもあって、よくわからなかったんだよね)

緘黙症の双子の姉妹が分かち合う優しさとその些細なる欲

魂は決して孤独、グレゴリアンチャントをネットで聴きつつ眠る

沓脱石に塩ビ怪獣戦って負けたる者は落ちてゆくなり

マルシンのハンバーグ焼く匂いして彼を生活に容れゆく女

  (マルシンのハンバーグって、全国区だと思うんだけど、は? て訊かれることも関東ではあるなあ)




2014年07月の83首

思春期と晩年は本を読みながら異なるものぞ読むことの意味

7月の価値観生(あ)れよ中年の大地震裂しても咎(とが)なし

緑白のトマトほのぼの赤むころひとつの想い終わらんとする

スポーツカーが渋滞にいてそのような幸と不幸が通り過ぎ、ない

朝痛む頭蓋を会社に運ぶまで人のかたちが時々あやし

やがて差別失いし世に蛇使いの娘のごとき祝福なけん

ぼんやりと広野に立てばわれをめぐる記憶の急流胸までせまる

賛否とはおよそ離れて動きゆく世界がよくなるのを待つばかり

ベニツルがこれからも赤くいれるよう葦附(あしつき)揺れる水面(みなも)にも付す

春頃のなまぬるみたる風はまた許すであろう、許されるだろう

震災詠の詩の部分こそうつくしく成れば記憶の瓦礫が増える

態度価値と人格価値も奪いゆく老いの病いに遠出す母は

美しい老醜といえばいうべきか響かぬことも愛しきディラン

若き日の失意は水面(みなも)に映るのみ後世オールドマスターだとて

今回も熱きツールの裏側の冷凍庫にて血の凍るかも

こんな日をあと一万も繰り返し百日ほども覚えるならぬ

日が落ちて会いたがる君、皮膚炎のゆえに純度の低き友情

寝物語あらば語らんことなども縁なくばわが脳(なづき)にて消す

人間のだんだんクサくなりゆけば選臭思想はやたちのぼる

負けるときは王者の技も貫禄も雪崩れてあまりにもアマリリス

風が葉の裏まで舐めて一盛りの林を全部ゆらしてゆけり

明るさの満ちる駅前パイプテントの風船の影も赤い色して

四十男のきわまる孤独の正体はその類似せぬ来し方に因る

飴玉を途中で噛んでその後に噛まずに済んだ生をしも思う

重大な宣旨を受けに行くようにむら雲ゆっくり音なく北へ

骨を撒く場所を探すも非所有の土地などなくてゴミに如(し)くなり

この先もこの幸福を疑わず目を閉じて首を揉まれたる鳥

千体は並んだ浜か今も弱く進まんとして戻さるる波

アレンジにアレンジ重ねUKの霧のようなるジャミロクワイも

真面目なものに向き合わざるをえぬ生の笑う筋肉は人まで持たず

叱られた遺恨は死後も零(こぼ)れ落ち算盤坊主(そろばんぼうず)の指なぞる音

誰からも応援されぬ苦闘よしジンジャーエールでくしゃみする夏

懐かしい彼の正しさを聴きながら無敵状態の音楽流る

初めてのCDの虹をていねいに収めて聴きしマゼールの五番

淋しさを埋めてはならぬ、夏の夜は芽吹きも早く生長しるき

男って現象として孤独だなあとひとしきりなる思索の結語

月額の忠誠心が言動に出る後輩をやさしく見おり

爪ほどの脳(なづき)の鳥に突つかれて声荒げれば口少し開(あ)く

人の群れが去りても場所はややひずみグラデーションの羽根落ちている

要求から供与とならんデモまでは見れぬと思う、国道を抜ける

少しくは明瞭となる二回目の読書のような寂しさならむ

完全な円にはなれず回りゆく惑星の花結びの軌道跡

飛天のような美しさではなかったと星々を知る、科学のせいで

時間とは一本の綱、引く時にゆるみまざまざ見ゆるも閣(お)けり

オパールの中で屈折すさまじきシリカの痛み美しくある

焼米を噛み西洋の書を読めど鼻腔のあたり上代香る

思い立たねば吉日ならぬ日が続き未活動時の脳は休まず

野良猫の間一髪に拾われてその生その後平穏ならむ

いやいやに生きてあげてる顔もまた人間だけが可能の知性

人間が自由であるとの流行に痩せ我慢して死にゆく自由

バイパス沿いのパチンコ店も荒れ果ててタンブルウィード(回転草)のまぼろしも見ゆ

人に云われてやる戦いにあらざれど遠浅(とおあさ)の海を泳ぐ気安さ

いい事か否かは知らずこの人のながく孤独に耐えてきし顔

若い人とは競えないだって世界とはその若いのが好きであるから

革命は伸ばしたる手を斬り落とし挿したる花の美しき、まで

攻撃的な子の感情のあるがままアマルガムなる凝(こご)りざらつく

こうもりの変則的に飛ぶ夕べ生きていることの喜びに似て

剥ぎ取った世界一枚左見右見(とみこうみ)して人間は科学で進む

希望とはおおむね時間がかかるもの線香の灰のかたちそのまま

夕方に赤紫が浮き上がるあの一隅の花の名知らず

今夜少し長めの夜に遭遇し全曲集のCDにする

爆撃の終わらぬ世界に痛みつつ而(しこう)していまを諾(うべ)なうこころ

アイスモナカ食べながら暑い午後の影の花壇に掛けてばあちゃんがいる

ディアスポラは時間の言葉、移動する思想の種子は粉を撒きいつ

夏季休暇の予定を話すようにして希望をすらすら滑らかに聞く

復興は忘れることに少し似て思い出すがに満たされずなる

着ることのもうない衣装が過ごしいる樟脳の溶け込みたる時間

古書店でkabaleの訳の違いたるタイトルに長く悩みきかつて

だしぬけの邂逅であるトンネルを抜けて真白が落ち着けば海

緘黙症の双子の姉妹が分かち合う優しさとその些細なる欲

それなりに夏の途中のはじまりの桜並木を響くノイズは

魂は決して孤独、グレゴリアンチャントをネットで聴きつつ眠る

夜というひとつの影に入りこみ影出るころに港に着けり

純粋な目になりたいという言(げん)のいろいろ隠していたる明るさ

人体に絵を描きいし若者の絵を洗うとき表情も落つ

プラネタリウムみたいな夜空の下にいてカップルみたいにならぬわれわれ

両手で包むことのやさしさ、小さき手の結果に過ぎぬ行為とはいえ

とねりこのぐんぐん伸びた枝を切りなんとなく遠い歌口ずさむ

浴室の窓から見える公園のかつて事件のありしと聞けり

川沿いに並ぶ柳に雨垂れて途中まで雨に靡いて楽し

沓脱石に塩ビ怪獣戦って負けたる者は落ちてゆくなり

差し伸べた手を振り切ってハムスターは一人で死地に赴きたりき

マルシンのハンバーグ焼く匂いして彼を生活に容れゆく女

2016年7月9日土曜日

2014年06月作品雑感。

短歌という文芸作品を鑑賞するさいに、「何を」「どのように」という二つの軸が批評に据えられることが多い。

いわゆる主題と技巧の問題ですね。

で、二人のアイドルのユニットがいたら、自分はどちらが好きなのか、誰からも訊かれてないのに、つい真剣に考えてしまうように、「何を」と「どのように」の、どちらを重視すべきなのか考えたことがあるだろう。
むろん、どちらも大事なのだが、時期によって、おれは主題だ、わたしは技巧だわ、と決めたくなるものなのだ(なんやこのジェンダー)。

雑誌も定期的に、この議論はローテーションを、かつてはしていたようにみえる。

いまはネットでもたくさん老若男女が短歌を作っているので、ピンと来ないかもしれないけれど、短歌って、しばしば、滅亡論とセットで議論されていて、若手なんかは、けっこうこれからの短歌はどうするべきか、という答えのない問いに放り込まれていたものだった。

そんな空気の中で照屋が考えていたのは、主題と技巧の問題は、「誰に」という対象を設定することで解決するのではないか、ということだった。歌う対象、じゃなくて、歌いかける対象。

この立論はうまくいかないまま照屋も実力が伴わないのでそのままになっているが、何かいまでも気になっている。何かの打開になると、たぶん信じている。(現在では、「誰に」もさることながら、「うたう」ということも大きいような気がしている。

いま、けさのまにえふしふ(万葉集)という、満員電車で揉まれながらちょっとずつ読んでいる万葉集の感想メモをツイッターでつぶやいているが、万葉集の雑歌、相聞、挽歌はそれぞれ、「誰に」うたいかけているかで分類しているように思っている。すなわち、自然に対して(雑歌)、恋する者にたいして(相聞)、死者に対して(挽歌)。

「誰に」うたいかけているのかを突き詰めていくと、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』ではないが、詩の幹みたいなところに、自分がいるのを感じるのではないだろうか。

あなたは、誰に、うたいますか。

自選。

一貫目蝋燭の火が風もなく捻(ねじ)れ黄色く世界も捻れ

ブロック塀の根際(ねき)にドクダミ地味に咲き愛でるわけにはあらず気になる

蛇の神は漢訳に龍と化身して逐語訳せぬ信仰を思う

誰に会うわけでもあらず梅雨だくの外へ牛丼食いに出るだけ

目の答えは見ぬようにして質問に答えるたびにくだるきざはし

六月といえ雨降れば寒かりし外キジバトがくぐもって鳴く

ようようよう朝の明かるき梅雨雲と地平のすき間は、(ラップみてーだ)

味噌とゴボウの香を含みつつ飲む汁よ人間界の苦楽なつかし

成ぜねば短命よりも長寿こそ哀しかるらん、昨夜(きぞ)からの雨

母の周(まわ)りを子はくるくると回(まわ)りおり手伸ばせばきっと届くあたりを

月が大きいだが影がない帰路の手に下げている向き合わざる感情

秘曲ゆえ知らぬというか秘曲という存在さえも知らなくて生く

人間は間接的に食べもして梅雨時期らしい目で二人いる

詩にてなおあたりさわりのなきことを述べて齢(よわい)となりにけるかも

利己的に生まれて利他を学習し自己とたたかう生命(いのち)とは愛(かな)し

280年後のテレビドラマにて適(かな)いし曲を書きしバッハは

奥底(おうてい)に何の願いのあるわれか膝まではない沼地が続く

驚くべき災害のあと生くるのも死ぬのも卑怯にみえる、夏枯草

跳びはねては沈んでイルカは繰り返し等速でわれは年老いていく

本当に花が飛んだと驚いてそのまま視界をわたるモンシロ

まだおしゃれして遊びたい母親が子を保育所に昏く預けて

バファリンで言うならここは半分の文系的な宇宙解釈

2014年06月の60首

冷蔵庫の氷が落ちて静寂がさびしくて少しあたたかき夜

一貫目蝋燭の火が風もなく捻(ねじ)れ黄色く世界も捻れ

木の箱に原稿少しずつ満ちて締め切り前の化合物まぶし

マッチ箱の形容ももう百年を経てラッピング電車並び来(く)

ブロック塀の根際(ねき)にドクダミ地味に咲き愛でるわけにはあらず気になる

今日の幸、今日の不幸をひとつ決め小さく生きるを今はよしとし

正しさで人を断罪する夢のその両方の快楽ぞ憂し

孤独とは孤高の初段、自意識の合わせ鏡にまた他者を出す

世界を語る資格はなけんこの部屋でペットボトルを転がすわれは

君のためかつて使いしフレーズをふたたび使う、こなれて浅き

この曲の歌詞を離さず持っていた記憶なつかし、少女にしあれば

蛇の神は漢訳に龍と化身して逐語訳せぬ信仰を思う

寝る為に生きるにあらずと言い切れず早々と寝る、もういくつ寝ると?

富者は驕り貧者は僻むまさぶ(淋)しさ上衣(うわぎ)を引かれわれも入りにき

誰に会うわけでもあらず梅雨だくの外へ牛丼食いに出るだけ

目の答えは見ぬようにして質問に答えるたびにくだるきざはし

六月といえ雨降れば寒かりし外キジバトがくぐもって鳴く

探究の綱を手放す瞬間の楽な落下と余る思念は

歌はうった(訴)う、けれど同時にマネタイズせねばならねばネットでは止む

ようようよう朝の明かるき梅雨雲と地平のすき間は、(ラップみてーだ)

「だとしたらもともとそういうものなのだ」そうやって知る事実いくつか

味噌とゴボウの香を含みつつ飲む汁よ人間界の苦楽なつかし

しんどくてリタイアしてもかまわないマラソンならば意外に続く

成ぜねば短命よりも長寿こそ哀しかるらん、昨夜(きぞ)からの雨

母の周(まわ)りを子はくるくると回(まわ)りおり手伸ばせばきっと届くあたりを

新品の電子機器なる匂いして君の衣服の中に鼻寄す

月が大きいだが影がない帰路の手に下げている向き合わざる感情

秘曲ゆえ知らぬというか秘曲という存在さえも知らなくて生く

満月を過ぎれば既望、このあとは日々確実に新へと向かう

人間は間接的に食べもして梅雨時期らしい目で二人いる

どこまでも愛を放出するような歌つくり今日の予定は変えず

涙のことを歌えば歌はピンクッションの途中で刺さったままに留(とど)まり

大御所の演奏は良し悪しを超ゆ芋を飲みつつ聴く老ロック

詩にてなおあたりさわりのなきことを述べて齢(よわい)となりにけるかも

利己的に生まれて利他を学習し自己とたたかう生命(いのち)とは愛(かな)し

末代までの恥など知らず傍流は傍流らしく跳ね返りゆく

280年後のテレビドラマにて適(かな)いし曲を書きしバッハは

おそろしく舐めた目をする部下かつてのわれに似おれば背の汗垂るる

少し先の季節の過去ふとよみがえる冷蔵庫で冷え切ったる浴衣や

輝くのは若さか老いかオクシモロンと言うには老いのさまざまにある

階下われにひときわ高い声で鳴く飼鳥よ早く君に会いたい

奥底(おうてい)に何の願いのあるわれか膝まではない沼地が続く

メメントモリは取り憑くと聞きああそうかそういうことかと思いが至る

色百首編めばおそらく早々に情愛を示すそれの登場

人類の叡知がひとつ進むとき託しつつ去ってゆくもの多し

心許すゆえに吐きたる暴言や不機嫌をいつか仕様と思う

悲惨なる一瞬の死とそを思う長きひたすらながき生はも

背景の背景にふと震災が涙のごとく押し寄せてくる

驚くべき災害のあと生くるのも死ぬのも卑怯にみえる、夏枯草

跳びはねては沈んでイルカは繰り返し等速でわれは年老いていく

夕方の雀であるか電線に止め具のように並んで待てり

文学少年というひとつの生物が手を横に引く、よりみちに見ゆ

ささくれを突ついて痛い愛情を拒みつつ受く受けつつ痛い

食パンを噛みつつ信ず友情の太さではなくその分厚さを

本当に花が飛んだと驚いてそのまま視界をわたるモンシロ

はみ出たる腹をさすりてわが身はや地球より軽く鴻毛に重し

まだおしゃれして遊びたい母親が子を保育所に昏く預けて

バファリンで言うならここは半分の文系的な宇宙解釈

生ハムをかじってワインなめながら若きディランの風刺聴き沁む

旗の色を顔にペイントしゆくときしびれておりぬ、二つ意味にて

2016年6月4日土曜日

2014年05月作品雑感。

6月ですなあ。1年の半分がはじまるなあ、と思うです。

ふと、テルヤはテルヤになってから(2012/09/11)、どれくらい短歌をつくっているのか気になって、概算を出してみたのだが、2000首くらいはつくってそうだということがわかった。

文学において量というのは質以上に問題にされることはない。そりゃそうだ。ズキュンと撃ちぬく一首がない100の短歌の、何の意味があろう。

とはいえ、おそらく歌人は、自分がその生の折り返し地点を過ぎたことを知ったとき(それは往々にして過ぎてからそれとわかる)、あといくつの作品を作れるのか、考えない者はないだろう。

10代の学生だったころ、フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが、生涯の詩業がたしか15万行というのをどこかで読んで、その数よりも、「え、詩ってそういうふうにカウントすんねや!」と驚いたことがあるが(笑)、ユゴーの80年の生涯はまあ3万日ちょっとだから、生まれてから死ぬまで毎日5行の詩を書き続けて15万という、そういう数字だよね。

正岡子規は短歌は千数百くらい作っていたけど、俳句は2万句は作ってた。正岡子規は35歳だけど、20代から句作を始めてるから実質は十数年で句作を行っているので、これまた、1日5句程度作っている計算になる。

塚本邦雄という魔王は(歌人の格闘ゲームだれか出して)、1日10首を10年続けたとかいう話を聞いたことがあるが、それでも36,500首だよね。化物だけどね。

柿本人麻呂などは、長歌を合わせてもたしか100程度だったと思うんだけど、いつか、やってみたいと思うんだよね。1年で1首しかつくっちゃダメ、という1年を。どういう歌を残すんだろうね、そういう制約をうけた現代歌人は。

自選。

 CDをビニール紐でつり下げて虹失って白しふるさと

 人ひとり業を抱えて眠りおり己のような字のかたちにて

 地の霊が顔寄せあっているごとし孟宗竹のさやぐ山裾(やますそ)

 死を忘れた文明やよしあの日以後鼻息かかるほどそばで死は

 四十を超えると翁、平安の光る男も応報の頃

 生き物がまた我の前に死ににけり我が臆病を包むごとくに

 ボロ雑巾のように酔えば一人を思ったり思わなかったり、思いも襤褸(らんる)

 粘膜と先端の話するほどに離れてしまっておるぞ二人は

 寂寥というほどもない寂しさはもうこれからはずっとあるなり

 真白くもゴヤの巨人を思わせて五月の入道雲はおそろし

 ともかくも線路は続く、障害の子を届けてから母はマックへ

 一音が奥底(おうてい)に届き驚きつ現在の我が底をも知りて

 流れては浮雲はもげて薄れゆきまた現れる、生死(しょうじ)あらねば

2014年05月の63首

砂糖水を飲みつつ帰るふるさとの幻想、口中あまったるくて

途絶する川とは知らずほそぼそと揺れたる水のあかるき冷気

ジャカード織機(しょっき)止まればここに巨大なる静謐生(あ)るる、滅亡のごと

CDをビニール紐でつり下げて虹失って白しふるさと

耕耘機の掘りだす虫を待ちながらカラスが十羽、また一羽来る

川上に吹き上がる風、野田川の逆に流れる水面(みなも)のあたり

人ひとり業を抱えて眠りおり己のような字のかたちにて

まだ土地に星近きまちの夜祭り三日月までが観に降りてきて

地の霊が顔寄せあっているごとし孟宗竹のさやぐ山裾(やますそ)

メインメモリの減ってゆく母、タケノコを焦がしてずっと言い訳をする

ふるさとはやがては挽歌、人のない通りを明るい風ぬけてゆく

この裏の畑が母を微笑ますすかんぽを抜く、スミレは可憐

寺にある鳥居をくぐり境内はまばらにスミレ、人知らず咲く

玄関に石載せた白き紙あれば電線に墨で啄(たく)、つばくらめ

切れぎれのネット接続タイムラインに君の叫びを聞いた、気が、し、

休耕地にスズメがあそぶ、シナントロープのくせに減りゆく人を憂えず

死を忘れた文明やよしあの日以後鼻息かかるほどそばで死は

音楽は崩れくずれて賛美歌のフレーズまぎれてきわだつごとし

肉の輪を腰に重ねて巻いている女が奥で飲むカウンター

ドライブという語のドライブ感もなく君を運んで君にさよなら

久々のワインの酔いを覚ますためコーラを飲んで黒き舌あらう

四十を超えると翁、平安の光る男も応報の頃

Wが付くってことは世界だろう世界ってことは凄いのである

差別するこころを差別するこころ、言葉ではない、ラムラムザザム

綺麗なる顔で道路の真ん中で猫が寝ている、いや、死んでいた

強力な力が命にぶつかれば未来がぜんぶ身を出(いで)て消ゆ

おいそこの少し離れて休んでる小さくたくましい春雀(はるすずめ)

風食えばふくらむばかりの鯉のぼりをふるさとの景と更(か)えて帰り来

カーテンを閉めきった部屋で丸鏡だけがましろくひかりたる朝

カメラレンズの内側に棲む黴(かび)もまた目に見えぬうちはあるとは言えず

生きることに理由はなくてこけまろび老ハムスターが歩かんとする

生き物がまた我の前に死ににけり我が臆病を包むごとくに

野良猫は自由な猫と異国では呼ばれいるらし、その死も自由

水木しげるが描きそうなそのやわらかく尖(とが)るうわくちびるに触れたし

靴の紐ほどけたままで朝早い少年と我はすれ違いたり

いつまでも半音階の旋律が落ち着きたがっているような生

この天地含めて私、ごろごろとその死と生を諾(うべな)い転(まろ)ぶ

時効ならぬ犯人像と服装が張り出され色あせて駅前

ボロ雑巾のように酔えば一人を思ったり思わなかったり、思いも襤褸(らんる)

ディンギーは海の近景、そのもっと手前にパラソルの影なる女

雨音がかき消す音に紛らせて祈りの言葉唱えては消す

粘膜と先端の話するほどに離れてしまっておるぞ二人は

寂寥というほどもない寂しさはもうこれからはずっとあるなり

家庭とは幾滴の毒、舌先のしびれて酒に酔ったまま寝る

真白くもゴヤの巨人を思わせて五月の入道雲はおそろし

駅前の花屋のように季節とはその背を曲げて色を揃えて

駅前をふと戦前と読み違え街の景色の意味が変われり

失敗を避けおれば憂し、二回目がないのに試行錯誤の生の

理由なき反抗の熱を育みて運動会ではしゃぐ子供は

土を掘るみたいに発掘するデータの輪郭を払うような手の癖

いやおうなく人は形となりゆくを常田健描く農のいとなみ

ともかくも線路は続く、障害の子を届けてから母はマックへ

卑屈さは決め込めば楽、チョコレートの包装紙握り背景と消え

愛情を数式として時間とか距離・金銭を剰余する君

漬物石の角(かど)やわらかく少し長くさだめのようにつけものを圧(お)す

前世紀人特有の臭いがも気になりはじめ沈黙の増ゆ

植栽のつつじのそばに雑草のポピーポピポピ咲いていたりき

一音が奥底(おうてい)に届き驚きつ現在の我が底をも知りて

百年で生は死となり死は時に九十九(つくも)を経(ふ)れば覚むると謂えり

歌を持たぬ民族はないと美しく語れど思う、人や場所など

咲き終えたつつじの花に巣を張って蜘蛛の姿のなき謳歌なり

流れては浮雲はもげて薄れゆきまた現れる、生死(しょうじ)あらねば

わが身内(みぬち)の井戸に落ちたるウォレットの手に届かぬが耳には早し

2016年5月14日土曜日

2014年04月作品雑感。

5月になっています。5月というのは、さわやかな印象がありますが、最近はけっこう暑かったりもして、昨日のテレビだと、5月の平均気温は130年前とでは2℃くらい上がっていて、かつての5月の気温は、現在では3月くらいなんだそうな。あー、どうりで、と思ったものの、130年前のこと、わし、しらんがな。

生まれていない時期のことを思い出すのは通常の物理法則上では、出来ないとされているんですが、このブログのように、2年前の作品を掲げていると、つい先日作ったと思っていた短歌がもう2年前だったり、最近の着想と思っているものをすでに作っていたりして、われわれは実は球体の上を歩いているんじゃなくて、実は球体の内側を歩いているんじゃないか、という錯覚にとらわれたりします。時間は直線では決してなくて、いや、直線に記述することも可能ではないんだけれど、それはらせんのグラフを横から見るから進んでいるのであって、上から見たら、円のグラフになってしまう、サインカーブみたいなものではないか。だとしたら、認知症の年老いた彼女は、もう時間を横から見るのを止めてしまった、たったそれだけのことなのではないか。

そんなことを考えていたわけではないが、GWには生まれ故郷でゆっくりしながら、お腹周りを絶望的に蓄えてきたのでした。

4月は、どの季節にもありますが、4月特有の季節感があって、それをすくい取ろうとする作品がいくつかあるようです。

  アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

  雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

  雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

  ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

  川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

  公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

  真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

  クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

4月はチェルノブイリ事故で、今年は30年だけど、この時は28年ですね。こういう歌はネットではどうなんでしょうね。

  チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

今ではウクライナになったのでウクライナ語で「チョルノービリ」という場所に、ある施設がうずくまっている。それは、名前も当時のロシア語のままの「チェルノブイリAES」だ、みたいな意味の歌です。


自選
  ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

  ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

  アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

  準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

  映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

  つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

  前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

  新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る    

  夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

  満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

  両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

2014年04月の60首

遺伝子のというより遺伝システムの袋小路でさくらまぶしき

駐車場の車を選び当たりなら午後まで眠っている下に猫

機械訛りの声にやさしく包まれて終わる生でもよいかもしれず

予想より少し長き夜首に溜まる汗乾く頃ふたたび眠る

アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

なりたくていやなれなくてお前らは今年の今のさくらであるか

死神と朝との二択、目を開けて朝であるなら肚決めて生く

元旦の歯ばかり磨くつぶやきのボットに遭いてあやしく可笑し

驚くべきこととは思う生きているすべてのものが老い、曝(さら)ばえる

雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

知らぬものどうしが文字を並べゆき花冷えの語で少しつながる

ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

テレビ消して手のりの鳥といて思うシャガールのそのかなしい気持ち

管理職はラズノグラーシェを抱えつつ遅めの昼を一人で食えり

よろよろのハムスターには巨大なるわれの愛着すら畏怖となり

まだ桜、家の近所の公園でわが呑む夜をまつまであるか

世界からドロップアウトするような早寝をかさねまだ容(い)られおる

真面目に生きさらに真面目に怠けたるこのうつしよに猫というのは

ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

堪忍袋のジッパーを行き来する電車、今朝もどこかが挟まったらし

音楽が頭の中にあるせいで少し楽しくなるとは不思議

材質を疑うほどに日に光る赤チューリップ、チューリップの黄

アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

生きることの歓喜をのちに伝えんとまだ隠れたる窟の埋経

端折るならば血色のよい死体にて土にならむと樹木を探す

川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

通電をやめた一人の媒体のサルベージすべき感情いくつ

眩しさも暗さも怖き飼い鳥の軟弱さこそ生きるといえり

ブックマークの一覧に昏(くら)き文字ありてたがいに触れぬまま過ぎていつ

公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

空調とファン駆動音に紛れ美(は)しサーバー室で歌うバッハの

さくら散ればなしくずし藤はなみずき紫陽花さるすべり、で木犀へ

紳士服売場でわれの属性を見失いループタイを探しき

準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

日日(にちにち)がデジャヴァブルだと思ううちにこの感慨もコピー嵩(かさ)むる

無明(むみょう)から次の無明へ渡りゆく馴れた目が厭う世界ならよし

クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

whyよりもhowに尽きると聞き做(な)して目玉親父の声でフィンチは

隠棲する老思想家のかみ合わぬ助言と思えど敬にて受けつ

油絵の油の固いマチエールの明るい部屋にしろき青年

人型にくり抜いた紙を重ねゆきその空間に生は詰まりつ

映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

店先で店員と猫がゆっくりと夜を待ちいる春の夕方

真夜覚めてトイレを終えて一杯のコーラを飲みてやすらけく寝る

前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る

飼い鳥に来訪神のわれはきょう真夜帰りきてひたすら撫でる

夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

夭逝こそ若き特権、赤緑(せきりょく)のあざやかにして短き躑躅(つつじ)

乾きたる有翼天使図は赤く古昔(こせき)人間(じんかん)に遊びていしか

古代コンクリートの肌(はだえ)あたたかし後(のち)錬金の夢やぶるるも

両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

服を着て散歩する犬とすれ違い犬も服着た人われを見る

宇宙まで透けたる空の蒼(あお)の下五月こそ何かはじめたるべし

2016年4月2日土曜日

2014年03月作品雑感。

4月になりましたね。春でござんす。
春ってやっぱり短歌、和歌に合ってるんだろうなーと思います。歌にしやすいというか。
(どの季節でもそう思ってるのかもしれませんが)

2年前の3月の短歌なのですが、なんか変わった名前の色を詠み込むこころみをいくつかしてみたようですね。すぐに止めたみたいですが。

  小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

  瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

  冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

  読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

  赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

古代日本のカラーは4色だったという説がありまして、明暗とコントラストによって、
あか(明)−くろ(暗)
しろ(標)−あお(淡)

の画質調整で世界をみていたようです。なので、この4色については、〇〇色、と「色」を付けなくても形容詞で使える言葉になっているとか。
この「色」を付けなきゃいけない、というのは、日本語のわりと厳しい制約(というか特徴)じゃないかなーという気がしますね。

さて、3月というのは当分しばらく災害を思う月となります。2014年は3年目でありますが、災害によって傷んだ心を思うモチーフと、傷んだ心が攻撃性へと向かった傾向をにがく感じるモチーフが、やはり散見されます。

  やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

  現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

  ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

  十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

  防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

  千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

  ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

自選。

  白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

  朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

  日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

  新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

  針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

  ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

  眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる


2014年03月の62首

小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

この春の生ぬるい風に許されて文系宇宙をもう少し歩く

向き合わねばならぬ三月つごもりを過ぎさいわいにして外は雨

瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

他船より碇泊ながくその名よしラッキードラゴンナンバーファイブ

明け方に鳥の群れひとつ南西へ幹線道路の我を越えゆく

読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

根本問題などは先延ばしにしつつそのまま土の下もよろし

現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

洗面所に零(こぼ)れた鳥のえさ芽ぶき強大に及ぶ春とは云えり

駅前にギターピックが落ちていて話は以下でも以上でもなく

未来とはさなぎの中身、ペーストの未明の余地を捏ねて一日(いちにち)

水たまりに降る雨粒の雨粒も波紋も消えることぞ次世代

白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

牛丼より高きクレープ食い終えてそのほの甘き時間はかなき

十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

誓う日のまだ来ぬ生は措くとして逆算の見えて祈るいのりは

千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

人間が好きになれぬと件名のでもさみしいと本文にあり

ネクタイを締めたるまでは犬馬にて銀貨のような月の下なる

炭酸煎餅舌でぺちりと割り湿(しめ)しおくゆかしくも世界に消ゆる

秋は小さく見つかってゆき春はもうわんさかというかいっせいにそれ

君を思って思ったあとのひまわりの光を追って向くということ

これはもうこういう地獄なんだろうデンドロビウムが隅に置かれて

ゴムやガラスが時間に溶けてゆくように君思うわれも一つのフロー

たったいま言葉が生まれ声になる場にいるごとし、つぼみと聞けり

一行詩は墓標のように峙(た)つものを斃(たお)れて横書きスマホに累累(るいるい)

オレンジの夕焼けの前の一瞬にピンクの雲となりしと見たる

そのかみに嫌いし毒にも薬にもならぬ一行をこそ楽しめり

朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

寒い日のわが身を隙間なく埋めて火を守るような季を通り抜く

この店に南京桃は来ぬものか駅前の小さき花屋と思えば

大空を知らぬ錦華の雄鳥は窓外の風に怯えていたり

たとえば、金木犀は秋までを香らぬことに愚痴いくつある

日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

ミニワイングラスの中のしらうおの酢醤油に濡れた目と目が合えり

美しき名の革命よ、人は春を呼べずば一華(いちげ)にそれを知るのみ

針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

廃橋は両側を草に覆われて鍾乳石を垂らして還りゆく

労働の一員として愛玩から離れて佇む鉄道猫は

えいたくんベロベロバーとりなちゃんが顔近づけて中通り、春

眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる

寄せ返す波打ち際か明滅のミラーボールか生死(しょうじ)の相は

当世の真面目な熱も珍奇なるアルチンボルドの絵に似たるかも

帰路のホームに春のうかれを見かけつつ過ぎればいつか沈みに入(い)らむ

蜂に刺されたクピドを諭すヴィーナスの、月さす指の指のみぞ見る

あやとりの張られた糸の弾力は両の手指がまるくまもりて

孤独へのレジリエンスも持ちながら梅にいたのはメジロとは思う

のべつ幕なく人間界は比較して時に比較のなき顔をする

若き歌の時代を終えて友人はオールドジャズに沈潜しゆく

春の男になりきらぬまま休日のパルコにきたり急がねばならぬ

われもまた君の一つのマクガフィンになるのだろうか、なれるだろうか

雨厚く垂線引いてうすしろき桜の花も試されている

死後にわれなき日常の出来事は遠い異国のニュースに似るか