2016年4月2日土曜日

2014年03月作品雑感。

4月になりましたね。春でござんす。
春ってやっぱり短歌、和歌に合ってるんだろうなーと思います。歌にしやすいというか。
(どの季節でもそう思ってるのかもしれませんが)

2年前の3月の短歌なのですが、なんか変わった名前の色を詠み込むこころみをいくつかしてみたようですね。すぐに止めたみたいですが。

  小鉢なる寒紅梅の「寒」のつく分すこし濃き紅梅色(こうばいいろ)の

  瀝青を敷きつむまでのこの町の桑染色の話を聞けり

  冷めてゆく弁当を持ちて君に急ぐ誠実が青磁色になるまで

  読み進められぬほど泣き洗面所で顔洗いおり瓶覗き色

  赤墨色の苦い心をうち捨てて褒めねば動かぬ人にほほえむ

古代日本のカラーは4色だったという説がありまして、明暗とコントラストによって、
あか(明)−くろ(暗)
しろ(標)−あお(淡)

の画質調整で世界をみていたようです。なので、この4色については、〇〇色、と「色」を付けなくても形容詞で使える言葉になっているとか。
この「色」を付けなきゃいけない、というのは、日本語のわりと厳しい制約(というか特徴)じゃないかなーという気がしますね。

さて、3月というのは当分しばらく災害を思う月となります。2014年は3年目でありますが、災害によって傷んだ心を思うモチーフと、傷んだ心が攻撃性へと向かった傾向をにがく感じるモチーフが、やはり散見されます。

  やられゆく戦闘員の断末にヒーと驚く我が善ならざるに

  現代の丸眼鏡げに胡乱にて綺麗な話にあればなおさら

  ヒトラーに仮託して批判する者の垣間に善のヒトラー育ち

  十代の目にしか見えぬものを思うこの三年の潮引きしのちの

  防ぐということとも違い静かなる光の差してこの土地にいる

  千年に一度の災を振り返る日のもう少し酔っておりたし

  ラーメンの具を食う順を語りおり三年後の二時四十六分

自選。

  白飛びの午前の光にこの路地はアメリカンリアリズムのごとし

  朝湯にてしばしの無音、一秒の省略もなき世界の不思議

  日の沈み変色しゆく球面のあかねの中にわれも在るなり

  新宿駅の生の孤独の処理量にブロックノイズが見える片隅

  針金がまだ見えているエスキースの像に影ありたましいに似て

  ボオドレエルの一行にしかぬ人生のすらりと君は二行目に立つ

  眼前は景の変わらぬ地獄にてこの世のヘルを謳歌してみる


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