2016年6月12日日曜日

2016年05月うたの日雑感。

短歌において「分かる」ということを、いったいどの程度評価すべきなのであろうか。

分かる短歌を評価するのは、まぁ簡単だ。分かるもんね。
分からない短歌を、どうやって評価することができるだろうか。
分かるということは重要だし、分かりやすいというのは、基本的にはほめ言葉と思ってよい。
そのうえで、分かりにくいものを伝える、分かりやすく伝えられないものを歌う行為というのが短歌にはたしかにあって、その時に、読者は、読者が、どのように分からないことのアンテナを張っているかというのは、幸福な読者になれるかどうかという一つの分岐点のようにも思う。

5月から、うたの日が4ルーム制になったので、選評に挑戦していて、自分がどういう読者なのか、考えているのである。

自注など

「訛り」
ふるさとの訛りなき男帰り来て半透明の少年が笑う

 「ふるさとの訛り」ときたら啄木か寺山を下敷きにするのだけど、停車場でも珈琲でもなく、幼い自分に笑われる、という絵にしました。

「皿」
大皿にアスパラの肉巻き積まれ某(なにがし)の五位の笑顔となりぬ

 某の五位は、芥川龍之介の「芋粥」の主人公で、ここでは、アスパラの肉巻きが好きな作中人物が、山盛りに盛られて微妙な笑顔になっているシーンを描きました。

「引力」
解決でないのは知ってると言った、引力のようなものだと言った

 解決ではないが、引力のように引きつけられるものは何なのか、読者が何を想定するのかを問う形の短歌。それは、死であろうか、暴力であろうか、それとも、性であろうか。

「遊」
仕事帰りの電車がわれを吐くまでをゲームをせんとやスマホ擦(こす)りて

 歌題が「遊」で「せんとや」を使うってことは、梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」という童心の歌が想起されるので、現代では童心でなくサラリーマンがスマホを擦る行為で満足している対比の歌としました。

「元」
おみやげの「雷鳥のたまご」食いてはて、元始男はなんであったか

 おみやげのお菓子の「雷鳥のたまご」から、平塚らいてうを想起し、「元始、女性は太陽であった」から、そのころ男はなんであったのかとつい思うという歌。らいてうの言葉は、「今、女性は月である」と続くのだが、太陽と月が入れ替わるのが運動の本質であるのか、までこの作中人物が考えたかまではわからない。

自選

「難」
難しいことなどなにもあらざりきしあわせなきみを祝福に行く

「子」
カエルの子は人間の子は俺の子はカエルを人を俺を越えゆけ

「自棄」
自暴自棄のように体を鍛えおり今日も宇宙は今日分冷えて

「声」
風邪ですとふいごのような声で言う、風邪が「かぜ」なることふとたのし

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