短歌という文芸作品を鑑賞するさいに、「何を」「どのように」という二つの軸が批評に据えられることが多い。
いわゆる主題と技巧の問題ですね。
で、二人のアイドルのユニットがいたら、自分はどちらが好きなのか、誰からも訊かれてないのに、つい真剣に考えてしまうように、「何を」と「どのように」の、どちらを重視すべきなのか考えたことがあるだろう。
むろん、どちらも大事なのだが、時期によって、おれは主題だ、わたしは技巧だわ、と決めたくなるものなのだ(なんやこのジェンダー)。
雑誌も定期的に、この議論はローテーションを、かつてはしていたようにみえる。
いまはネットでもたくさん老若男女が短歌を作っているので、ピンと来ないかもしれないけれど、短歌って、しばしば、滅亡論とセットで議論されていて、若手なんかは、けっこうこれからの短歌はどうするべきか、という答えのない問いに放り込まれていたものだった。
そんな空気の中で照屋が考えていたのは、主題と技巧の問題は、「誰に」という対象を設定することで解決するのではないか、ということだった。歌う対象、じゃなくて、歌いかける対象。
この立論はうまくいかないまま照屋も実力が伴わないのでそのままになっているが、何かいまでも気になっている。何かの打開になると、たぶん信じている。(現在では、「誰に」もさることながら、「うたう」ということも大きいような気がしている。
いま、けさのまにえふしふ(万葉集)という、満員電車で揉まれながらちょっとずつ読んでいる万葉集の感想メモをツイッターでつぶやいているが、万葉集の雑歌、相聞、挽歌はそれぞれ、「誰に」うたいかけているかで分類しているように思っている。すなわち、自然に対して(雑歌)、恋する者にたいして(相聞)、死者に対して(挽歌)。
「誰に」うたいかけているのかを突き詰めていくと、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』ではないが、詩の幹みたいなところに、自分がいるのを感じるのではないだろうか。
あなたは、誰に、うたいますか。
自選。
一貫目蝋燭の火が風もなく捻(ねじ)れ黄色く世界も捻れ
ブロック塀の根際(ねき)にドクダミ地味に咲き愛でるわけにはあらず気になる
蛇の神は漢訳に龍と化身して逐語訳せぬ信仰を思う
誰に会うわけでもあらず梅雨だくの外へ牛丼食いに出るだけ
目の答えは見ぬようにして質問に答えるたびにくだるきざはし
六月といえ雨降れば寒かりし外キジバトがくぐもって鳴く
ようようよう朝の明かるき梅雨雲と地平のすき間は、(ラップみてーだ)
味噌とゴボウの香を含みつつ飲む汁よ人間界の苦楽なつかし
成ぜねば短命よりも長寿こそ哀しかるらん、昨夜(きぞ)からの雨
母の周(まわ)りを子はくるくると回(まわ)りおり手伸ばせばきっと届くあたりを
月が大きいだが影がない帰路の手に下げている向き合わざる感情
秘曲ゆえ知らぬというか秘曲という存在さえも知らなくて生く
人間は間接的に食べもして梅雨時期らしい目で二人いる
詩にてなおあたりさわりのなきことを述べて齢(よわい)となりにけるかも
利己的に生まれて利他を学習し自己とたたかう生命(いのち)とは愛(かな)し
280年後のテレビドラマにて適(かな)いし曲を書きしバッハは
奥底(おうてい)に何の願いのあるわれか膝まではない沼地が続く
驚くべき災害のあと生くるのも死ぬのも卑怯にみえる、夏枯草
跳びはねては沈んでイルカは繰り返し等速でわれは年老いていく
本当に花が飛んだと驚いてそのまま視界をわたるモンシロ
まだおしゃれして遊びたい母親が子を保育所に昏く預けて
バファリンで言うならここは半分の文系的な宇宙解釈
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