2016年7月10日日曜日

2016年06月うたの日雑感。

なんというか最近の自身の老害感がひどい気がして、余計なことや昔話を話してもしょうがないんじゃないかと思うのだが、逆に考えると数名の人が目を通す場所に過ぎないんだから、こういうところにこそ書いて、しずかにスルーされてればいいのかもしれない。

今日は参議院選挙の投票日ですね。
あれは魯迅だったかなあ。革命と文学の関係について、文学は革命の前と後にしか存在しない、革命の前は不満であり、革命の後は懐古である、みたいなの。

そして、渦中には、文学はないのよね。

それはともかく、政治と文学、政治と短歌というのは、古くからあるテーマではあるものの、うかつに入り込もうものなら、やけどどころか、火だるまになりかねない困難さがある。

文学史的には、プロレタリア短歌とか、第二次大戦の戦中詠なんかもひろく政治と短歌の話題といえる。

普段の歌会でも、批評の言葉として、「スローガン(標語)になってる」とか言う場合があるし、短歌が政治的になると、まあいい歌にはなりにくくなりますね。

(短歌が政治的になると、いい歌にならないというのは、本当は、かなりシリアスに突き詰めなければならない問題であるのだが、ここでは措く)

万葉集のはじめのほうの歌群は、天皇は国を褒め、貴族は天皇を称えるという歌が続いていて、和歌という事業がとても政治的であったことが伺える。(政治的でもあったし、宗教的でもあった)

和歌というのがそもそも皇室の歌形式なわけだから、プロレタリア短歌なんかは、このあたりけっこう苦しんだりもしたのだろうが、学生運動の時期に岸上大作とか、反体制の歌人なんかもあらわれて、短歌はなんとなく「青春」「反抗」みたいな側の人も歌えるものになって、現在はある。(ごそっと端折ってるなあ)


自作品の雑感あまりしてないな。タイトルと合ってなくなってきている(笑)。

自選。
「蛙」
ぼくはもう旅客機の窓に付くカエル、あえなく青い空へ落ちゆく

「舞」
人の生を座標固定で眺めれば舞(まい)にはあらず、舞(まい)とはおもう

「都会」
なんかもう都会の人になったねえ、やんわり撥(は)ねてゆく旧(ふる)き友

「顔」
顔などで好き嫌いなど決めさせぬ決意の絵かもジョルジョ・デ・キリコ

「今度」
この界も数字に支配されたので見捨てていこう、ではまた今度

「人名」
この歌書によると古代の日本には黒人もいて赤人もいる

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