2016年9月3日土曜日

2014年08月作品雑感。

2年前の8月は毎日3首作ってたみたいですね。ログから拾うのが大変だ。

昨夜、ツイッターの短歌クラスタの方のキャスに参加しながら、話題が題詠になったのだが、題詠をどのように考えているか、というのは、人によって異なるようだ。

戦後、短歌が文学であろうと攻めていかざるを得なかった時期は、なんというか、題詠という、歌題を誰かから与えられて、それを上手く消化するような技芸的な側面は、かなり軽んじられたであろうことは想像に難くない。湧き出てくるテーマ、あるいは、狩りに赴くような戦闘的な作歌姿勢、そのようなものが是とせられ、日常のなかでふと思うような、果報は寝て待っているような、小市民的な待ちの文芸、高齢者の余生のたしなみのような趣味ではあってはならないような、そういう前衛さが若者を惹きつけていた側面というのはあったと思う。

でも、逆説的、と言ってよいかどうか、短歌は、かつての上代の「ハレ」の文学でなくなって久しい現在、機会詩として、じつはきわめて効果的な形態なのかもしれない。

連作して、まとまった思想を述べる形式なんかよりも、けっきょく作者=<私>の諒解の中で、日記のような微細な発見、表現のあや、題を消化する技芸が、面白かったり、うけたりするんだよね。

あ、あと、題詠というのは、意外にセラピーの側面が強いような気がしている。シュールレアリスムの自動筆記、とまでいかなくても、題のために表現を練るなかで、自分の中で思いもよらない表現が生まれ、それが、悩める自己を相対化する側面もあるようだ。
題詠をそのように評価する人を、何人か知っている。

自選とか感想とか。

おおこんなさみしい赤ちょうちんにまでレリゴー流る、流されている

  ※2年前はアナ雪の音楽流れてましたねー

脊索が新参だった長い春未来の謳歌の夢を見るなり

かわいいの価値たちまちに移譲されその時に君の近くにいたし

ありふれた光あふれた明日へと器官は向かいたがると思(も)えり

妄想も年を経るれば何かこう偉大なものに化けたり、せぬか

生まれきて居場所をずっと探したる野良猫今日は現れずなり

もう少し人間の形していんと思う夜なり鏡に映れば

直前の一縷の望みを思いいき閉じ込められて沈む巨船の

  ※そういえばこのころ、韓国で修学旅行生が船に沈む事故がニュースを騒がせました。時事はリアルタイムで歌うことがあまりないので、しばらく経ってからかもしれません。

変則というまっすぐを孤独にも謳歌しているかうもりである

もう二度と離れぬメタか「悲しすぎワロタ」と云いて哀しくおかし

「はらじゅくうー、はらじゅくうー」と明け方の自動放送が原宿に告ぐ

本心を隠すためなる英語とう日本的なる使用法にや

傘の先でコンクリートを響かせてそのドメイン(域)の返事を待てり

真夜中に母を思いて涕泣す、感傷的ということでいい

ブロッホはこんな孤独なキリストに天使を添えて、孤独極まる

原初から女はエロしクリムトがアーチに描くエジプト乙女

意識淡い母の手を取りゆっくりとごくゆっくりと新宿をゆく

色彩というより光の量として金色多く描く世界は

  ※金色って、色じゃなくて、光量の表現だよね、という歌

ブッテーをぐるっと回し休みたり川から見上ぐ人間の街

  ※ブッテーというのは、漁具ですね。

人間は燃料に似て山手線は駅ごとに人を入れ替え進む

不在にも慣れる心ぞ、路地裏の涼しいというか消えきらぬ冷え

この水はいつの雪どけ、伏流の闇をしずかに沁み流れきて

波の上の時に逆巻く渦としてその尊きを生とは呼べり

  ※生という現象は結局なんなのか、というのをエントロピー的に考えると、こういう表現にならない? 

極東の島国の若き制服の娘もムンクは近しきてあり

  ※日本人ムンク好きだよね。でもけっこう宗教的だぜ、彼。

遠日点は過ぎておろうに粛(さむ)くなれば思う星には距離が要ること

グレゴリオ聖歌を流す理由などぽつりぽつりと話すほど酔う

痛々しい年代などはないのだとはにかんですましてはにかんで

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