2016年10月17日月曜日

「帰れない二人」のモチーフについて。

けらさん(@kera57577)の短歌を読んで、ふと「帰れない二人」のモチーフについてかつて書いていたことを思い出した。探してみるとあったので、懐かしく載せる。2005/7/11に書いたものだ。

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先日の日記で、さるとびエッちゃんのエンディングで、夕方、電柱の上から、町を見下ろしている寂しさに同化してしまった、と書いたが、読み返して、本当にそうだったか? と疑問が湧いてしまった。 

デビルマンも、たしか夕方、あれは鉄塔だったと思うけど、そこから町を見下ろしていたような気がする、それと混ざっているのだろうか? 

鉄塔? ジョジョの4部で、鉄塔で暮らしている男がいたが、あれは夕方ではなかったと思うので、これは混ざることがないだろう。 

町に住んでいるものが、町を家(ホーム)として帰っていく時間が、夕方であるならば、その夕方に帰るところがなくて、町を上から眺めている、という光景は、なんというさびしい異端の表現であろう。 
普段共同体の一員として生活していながら、その内面に抱えている異端が、一気に外側に吹き出る時間が、夕方であるのかもしれない。 

そういえば昔のアニメは、そういう異端が多く描かれていたような気もしないではない。 

高橋留美子あたりの職人になると、その境界線上の人物をわざと据えて、作劇に役立てているようなフシもある。(宇宙と地球の境界の"あたる"、男と女の境界の乱馬、妖怪と人間の境界の犬夜叉など) 

太陽が落ちた時、異端は輝きだす。それは自分で発光するのか、月に反射するのか、わからないけれど、自らの発光をもてあましたまま、発光しない世界を、えも言われぬまなざしで、彼らは眺めるのだ。 

井上陽水の曲で「帰れない二人」という名曲がある。作詞が井上陽水で、作曲が忌野清志郎という、ぜいたくな曲だ。 
そこでは、理由があるのかないのか、帰れない男女の二人が、町のあかりを眺めている。町の灯りが消えて、星も消えようとする深夜、男は女の手を握っているのだが、そのぬくもりの確かさも、ほんとうかどうか、もうわからなくなる。 
二人とも孤独でありながら、その二人どうしでさえ、分かりあえない部分があることを、詩的に表現している。 
好きな曲です。 

JUDY AND MARYにも同じタイトルの曲があって、歌詞の物語は違うのだけど、メロディが多分に前曲のテイストを感じさせる曲で、念頭において作ったんじゃいかなーと思った。 

それで、ちょっとマニアックな話になるんだけど、与謝蕪村の水墨画にも、そのテイストの絵がある。 

「夜色楼台図」という、まあ有名な作品で、おそらく京の都の、冬の夜の町並みを、少し高台から描いている水墨画で、こじんまりと家々が肩を寄せあって集まっている町に、雪が静かに降り積もる、という絵で、美術史的には、水墨画の題材として、画期的なものである、というような評価がされている。 

水墨画って、どっちかっていうと、山川草木、仙人境のユートピア、みたいなものを描くわけだから、当時の都会であった、京の町なんか題材としてふさわしくないわけで、その破格さをおもしろがる気持ちはわからないでもない。 

でも、その絵を一瞥した時に、私が直感したのは、そんなことではない、彼は、与謝蕪村は、あの異端のさみしさを描きたかったのだ、描くしかなかったのだ、という確信だった。 

あの時代にもそういう感情があったことを、新鮮に驚きながら、さらに驚いたのは、与謝蕪村が、それを表現しようとして、出来ている、その心象がじかに伝わったことだ。 

与謝蕪村について、歴史的なことはほとんど知らないが(自分の生まれた郷里に関係があることくらいは知っている)、与謝蕪村の、ほとんど眼差しを完全にわかったような気になった。 

彼を好きになったというか、歴史上の偉人ではなくて、先に行った人、という親しみを感じてしまった。 

そういう、先に行って待っている人に出会うのは、とても心が癒されるものです。
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なんか、あまり変わってないよなあ。成長してないよなあ。

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