9月というのは、テルヤにとって、アカウントが誕生した月であるので、なにかそわそわする感じがあって、あたらしいこと(短歌的な)をやってみようかなと思ったりするのだが、やりたいこと、できること、なすべきことのバランスがうまく調整できず、結局なにもしなかったりするので、そういうそわそわ感である。
この2014年は、まだうたの日もやっていず、この月のツイート数が72で、歌の数が70だから、短歌以外のツイートは2つ。9/10の「毎日つくって2年になった。ゆっくりとうれしい。いつも読んでくださる方に、感謝しています。」と、フォローした方からの挨拶の返事。今よりもずっとbotっぽかったに違いない。ずっとぼっと。ほっともっと。
自選のような、自註のような。
水底でほほ笑むような刑なりき或いはあれだ、ゼリーのプール
※ゼリーのプールって泳げるんかな。
どの虫も生きようとして無数なる牙むき出せる、慈悲となるまで
※生き物が生き物を食う、あるいは食われるというのは、けっこう慈悲的だ。
レゴリスに覆われて君の惑星は息かからねば暗く遠のく
※レゴリスは、岩石の表面を覆う堆積層。人はみなそういう惑星をもっている。
何か僕に出来ることなど「ないですよ」向こうも予期せぬ強い調子で
※声にして感情がはじめて本人にもわかるって、あるよね。
死ぬこわさが三(み)つほどあって日によって程度違いていずれもこわし
※死ぬのが怖いって、いろいろあると思うんだけど、3つくらいはあるよね? たとえば、死ぬ痛みの怖さとか、死んだあと自分が世界にいないっていうこわさとか、死んだあとどうなるかわからない怖さとか、死んでも世界にはちっとも影響がない怖さとか(4つやん)。もっとあると思うけど、ふつうあまり掘り下げないけど。
生命は進化というか無機物の慈悲のおこぼれみたく流れて
※上でも慈悲についてうたってるけど、生命って、無生物の世界の慈悲があって存在できてるよね。無生物の慈悲ってなんやねんという話だけど。
アーモンドを奥歯で噛みてきしきしとやがて悔しき敵(かたき)のように
クレヨンを途中で折りて引き抜いて包み紙ついている方をくれき
※上の二つは、まあ感触の歌ですね。クレヨンに付いているぱさぱさの紙、クレヨンを折っても一緒にやぶれない感じ。
トルストイをト翁と呼びし日本の文人のその親しみ遠し
※シェイクスピアを沙翁とかね。文字数もあるんだろうけど、あの尊敬と親しみとなれなれしさ、今書けないよなあ。
「夏休みが終わるのを嫌がりながら給食を僕はほっとしていた」
※貧困の問題は、やはりどこかには存在しつづけるのだろう。夏休みは、給食、しっかりした食事がない期間、とも言える。
復讐譚として読む『国家』、巻物の中でも嘲笑される師描く
※プラトンの『国家』を読むと、目を閉じてソクラテスとの日々を思い出すプラトンの絵が浮かぶし、そういう感情が文章の底流にある。
もし鳥よ僕の不在に気づいたら小首をひとつかしげておくれ
※忘れないのもいいけど、忘れるのもいい。
文化滅ぶ、川面の端に渦なして澱みたるもの流るるごとく
※どばーって水流すと、よどみはなくなるけど、よどみって、本当に不要なのか。
後になって切なく思い出されたる要領を得ぬ夜の電話は
※その時にわかるというのは、それはそれで錯覚なのかもね。
夢の中も変わらぬわれの日常に懐かしい人が邪魔せずにいる
※脳はそういうシーンを、たぶん気まぐれに組合せては捨ててゆく。ひょっとしてとても大切なシーンが出来る場合もあるのに。
時が来ればすくりと伸びてその先が染まりてひらく群れまんずさげ
※今年は曼珠沙華まだうたってないような。うたわないという選択もありだな。
なにかこう引きちぎられているような痛みのあとのような朝雲
過ぎ去ればまた一年は文字のみの、朽ち木の匂い、かぶとむし、夏
※この辺は季節感の歌ですね。
エンディングなきゲームほど明日にでも理由なく止む生に似てゆく
※最近のゲームは明確なエンディングがなくて、それはつまり、いつでも止めうる、という意味でもある。
本当はもう知っているデュシェンヌの微笑を与えられぬふたりは
※デュシェンヌの微笑というのは、笑おうとして出る笑いでなく、漏れ出るような笑みで、使われる筋肉が違うらしいのね。
腐った匂いの腐った街にいるゆえに腐った人になるすなおさよ
※逆は逆で怖いけどね。松平定信かよって。
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