たしか吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、言葉というものを、おおきく、おーきく、「自己表出」の言葉と「指示表出」の言葉に分けていたと記憶している。
たしか(たしかばっかりだ)、一樹の樹の図があって、枝葉の部分が「指示表出」幹の部分が「自己表出」とあったと思う。手元にないのでわからない。テルヤは手元に何ももっていない。
要は、人とコミュニケーションを取る時に使うツールとしての言葉が「指示表出」、外界とコミュニケーションを取るものではない、ツールではない言葉を「自己表出」と呼んでいたと思う。
詩というものが、あれはたしかポール・ヴァレリーだっけが言うように、歩行に対してのダンスであるようなものであるとき、短歌というのもまた、一読してすぐにわかる支持表出でなく、自己表出の言葉として、しかし届く人を探して立ち続けるものなのだ。
(過去の作品は、自分でもよくわからないものがある。でももっと過去になると、それはわかるようになるかもしれません)
自選など。
運命の出会いに飽きて犬猫はガラスケースに背を向けて寝る
子と母のやさしさにみちたなぞなぞを時間の終わりのように聞く午後
音程の少し違える鼻歌のCMソングを聞きつつ足れり
近くまで来ている河野通勢を観たいと思い観ぬかもしれぬ
日常のぎゅっと縛った粗縄の死はちぎれるかほどけるかなる
いにしえの人が見ていたゆっくりと月を呑み込み吐き出す虫を
毎朝をマックで過ごす老婦人ふくらはぎ長く揉んでいるなり
男の腹と女の胸に挟まれて電車で、来世紀は涼しかれ
合宿の夜の洗面所の合わせ鏡に無数のわれがみどりにかすむ
明滅するデジタル時計の真ん中のコロン、脈拍に似て親しき
見つけたる君のブログを読みすすみだんだん地震に近づいていく
レイヤーをひとつ落とせばいのちとはいまだ生き死にと飢えばかりなる
感性をたいらげてぼくは不安げに森さやぐ意味がもうわからない
生き残ってしまったかれのウェブログにきづなの文字は現れずなり
死が近くないこと怖し、薄目にて慈しむべき世界のときに
手招いて揺るるすすきが沿道にそうして秋は呼ばれて去りぬ
年降れば愛しい人のくびすじにいぼ凝(こ)りておりいとしくふるる
宇宙船が壊れてやがて来(きた)る死の夢から覚めて長い放屁す
バカとして生まれただからそのままでさわやかに死ぬる手などありの実
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