小説とは、文字通り「小さな説」である、つまり、文学とか、たいそうな話なんかではなくて、ちょっとした言葉のつくりものなんだよ、みたいな言葉だったのが、明治時代に、西洋のnovelの訳にすることで、立派な文学になってしまったんだが、長編小説って、長いのか小さいのか、よく分からないよね。
短歌というのは、これまた、明治の文学運動の中で、和歌ではなく、短歌という文学になってしまった言葉で、「短い歌」なんだけど、長歌に対しての短歌というより、使用文字の「短い」という意味になっている。(長歌に対してはもともと反歌であるし)
和歌って言葉は、「この国の歌」という意味であり、あきらかに、「漢詩」を意識して生まれた言葉であるので、短歌にも、明治の、対外的な意識のなかで、「短さ」を逆手にとったプライドがある言葉なのかもしれない。
所詮短い歌だなあ、という気持ちこそが、短歌的なのかもしれない。
自選など。
口をぱくぱくさせては歩く老人の霊薄(うす)らえば機構あたらし
消えていい写真を撮ってライフログは究極のわがひつまぶし食う
オフィーリアも日本語ならばどんぶらこどんぶらことて流れ揺蕩(たゆた)う
やくたいもないこっちゃなどと言い捨てて店出るように秋をはや去る
足首の太き女を走らせてピカソが描く古代の偽造
連鎖する事物の不思議に子は酔いてしりとりはりんごゴリラはラッパ
民主主義は素人がそれを選ぶこと、紫陽花は雨に濡れて色増す
本人は知らずわざわざ言うこともないが若さは光るってこと
通勤のときどき見しが今は見ぬ薄倖そうな一重の美人
草莽(そうもう)のいや莽蒼(もうそう)の郊外のエノコロの生えた国道さびし
夕日差すテーブルに林檎褪(あ)せまるで塚本邦雄的ひややかさ
米塩(べいえん)のひとつぶもなき貧困はあらねどコンビニ明るく遠き
新しい長靴買って雨を待つ少女のごとし、ストーブポチり
※この「ポチる」(ネットで注文をする)は、あと何年使える動詞だろうか。
夢にても古書店でこの本を選(えら)み購(か)う直前に棚に戻せり
モンキチョウがしばらくわれに並走し異なる論理でそのまま去れり
露悪にも露善にも飽き、ネットにもサイト枯れゆく秋の来るなり
言い切っては美しい日本語でないかもとかもしれないといえるともせず
サザンでいうとアルバムの中に時々の桑田が歌ってない曲の感じ
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