2017年1月2日月曜日

2014年12月作品と雑感。

2017年明けましておめでとうございます。今年も生きとし生けるものすべてが、足りないのは足りて、弱っているものは元気になり、行き詰まっておればひらけるようになることを、願っています。

先月から、noteをはじめまして、ツイッター、ブログ、うたよみん、noteと、書き散らかしてしまってよくないなあと思っております。このブログは、ひとまず、過去作品とうたの日作品をまとめながら、ちょっとまとまった文章を書いたりする場として続けてゆくことになろうと思います。

2014年12月は、「第57回短歌研究新人賞父親のような雨に打たれて」石井僚一」で、短歌の虚構問題というのが話題にあがった。テルヤは、ちゃんとそれらを読みもせずに、ツイッターでふわっとこれについて思うことを書いて、togetterのまとめに追加されたりした、ということがあった。
一応まとめて上げておく。
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短歌の虚構問題、古くて新しいテーマかもね。ネットでしか情報収集してないけど、思うところあり。

短歌はどうしようもなく一人称の形式なのだけど、その<私>にはざっと数えても4つくらいある。

まず作中で名乗る①主人公的<私>。彼はその舞台を演じている。
次にその作品世界を物語る②地の文的<私>。彼は①を俯瞰して語ることが出来る。
ここから次元が2.5次元くらい上って短歌作品を詠む③ペンネーム的<私>。
そしてやっと3次元の、親から呼ばれたりする名前の④人間的<私>が表れる。

そして恐ろしいことに、短歌の読みは、虚構がそれとわかる仕掛けがない限り、①〜④の一貫性が要求されたり、前提として補われたりする。

また、別の言い方をすると、①を虚構にすれば②が、②を虚構にすれば③が、その虚構を保証しなければならない。

話題になった議論は、この④=③が、②の虚構(=事実)を保証しなかった、ということなのであろう。

虚構が含まれることは、創作には本来なにも問題がない。ノンフィクションであるという宣言をしない限りにおいて。しかし、短歌は、宣言がない限り、ノンフィクションとして読むことが前提になりうる形式だ。

だから、それとわかる仕掛けのないフィクションは、読者に「騙された」という感情をもたらしやすい。
逆に言うと、<私>の③④については、虚実入り混じる遊びというのを、短歌はしにくい形式であり、それは、この部分の「誠実さ」「覚悟」がこの形式を研いできた部分があるからだろう。

斎藤茂吉が母親を作品で一度しか殺せなかったのは①②の虚構は許されたが、③④の虚構は当時の短歌文学では不実だったからで、③④の虚構を保証する文体がなかったからとも言える。一方、現在は、苗字苗字みたいなペンネームの作者もいて、③のフィクション化は進んでいる。

それでも、いくつもの人生を演じた寺山修司でさえ、③寺山修司という一歌人の、一冊の伝記化は免れえない。

そうだ、われわれは、一つの短歌の背後に、一歌人を想定する段階から、まだ抜け出ていないのだ。

あと、ちょっと話が変わるけど、写真のコンテストでは、動物の赤ちゃんとか、外国の名所的な景色とかは、禁じ手とまでいわないけど、いかにもなので、避けられたりするとか。かわいいし美しいし、誰でも写真にするからありきたりというか。

新人賞作品でみんな身内が死んでたら、食傷するよね。あまり撃てないから、貴重な弾、というのは、実際、ある。虚構とか誠実さとか、そういうのとは別の話で。

虚構問題についてもう一言。きょうび、短歌のうまい人なんてツイッターで見るだけでも腐るほどいて、うまいだけでは歌人を名乗れない。歌人というのは、短歌の<私>の引き受け方ともいえる。

新人賞は、その点、どこかで「歌人を名乗る覚悟」みたいなものも見極める役割が負われているので、表現の虚構性というよりも、単なる"嘘"を忌避する心理は選ぶ側に生まれるだろうことは想像にかたくない。本質は、短歌のタブーとかルールというより、匿名側のモラルだったのかもしれない。
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短歌に限らず、作者と作品の距離の近いコンテンツは、作品が作者をのみこんでしまって、作者自体がコンテンツになる、ということは読者(消費者)の欲望として、否定できない部分がある。お笑い芸人やテレビタレントでも、その家族が登場することがあるが、あのプライベートを見せることのバツの悪さだって、今ではコンテンツ化していると言えなくもない。

で、やっぱり、どこのだれかさっぱりわからない人の短歌がタイムラインに流れてきても、それを正当に評価することなんて、ほとんど出来ないのだ。性別、年齢、環境、それぞれを、なんとなく想像しながら、それらを、読むのだ。

自選。

長野の画家は長野を描くというよりだんだん山をえがくようなり

ゴミ袋を猫かと思い二度見してゴミ袋だった夜のおはなし

そうそうに若くてチャラい彼のためこの席を辞す、外では宇宙

三鷹育ちの中学生の女子なればまだ渋谷へは母と行くべし

体温を地球に任せイグアナは暑けりゃ怒り寒けりゃさめる

工事済んで跡かたもないプレハブの詰所のようだ、想いの記憶

食物連鎖の牙で食われぬ悲しみが物語とう嘘を生みたり

オペラハウスを建てたる捕虜のときおりに忘れる飢えや寒さを思う

年ふれば玉の手箱の本当の意味が煙りの奥に見えおり

いきものが死んでいきものうるおえる連鎖に似たる思いか慈悲は

バルビゾン、ふるさとをそう呼んでいた君の地方の大雪の報

大統一理論以前もその以後も石にもたれて祈る景あらん

ごくごくと水飲んでいる加湿器のまだ生き物になるにははやく

冗談が意味深みたいになる夕べ、互いにスルーしてはいるけど

柚子二つ浮かべて夜の浴槽に回転させたりして無為香る

美しい廟ほどかなし、残された生者の悔いに似た大理石

朝の道に釘が一本落ちていてそれでもうまく動く世界は

電柱が電線もたず立ちいけり強さにみえて弱さにみえて

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