2017年2月18日土曜日

芽月の魚(2011年04月02日の文章)

前略 J.P.サルトル様 

 2011年3月11日に日本で大きな災害があり、3週間が経ちました。何かが終息した、というような状況の変化はどこにもありませんが、3週間が経った――というより、月が変わった、という、本質的に何も意味のない区切りによって、特に、被災していない我々は、日常に切り替えなければならないと感じています。 
 これは、もちろん忘却の第一歩です。しかし、その一歩が必要であることは、上に書いた文章にもその理由があります。つまり、 
「被災していない我々」もまた、放射能よりも広い地域で、全面的に、非日常を生きてきた3週間であったからです。 

 日常と非日常とは奇妙なもので、この期間に見聞きした事象のなかには、その奇妙さの為に変な微笑みしか出ないようなものもありました。 

 曰く、被災地でのコンビニでのレジの行列で、ポイントが付くかどうか気にするオヤジがいた、とか、トイレットペーパーの不足のニュースを見て、子どもが「地震になるとうんこがもりもり出るの?」と尋ねた、とか、近所の子供に「春休みはトモダチと遊ばないの?」と訊いたら、うなづいて、外で遊ばない理由を「ほうしゃのう…」と答えたとか、花粉情報と放射能情報がお天気コーナーで流れている、とか。 

 PTSDとか、トラウマとか、便利な用語があるのはいいことだけど「4月になったし、気持ちを変えなきゃ」と心でつぶやいた人は、確実にダメージを受けているのは確かだし、子供の場合、もっと深く、無自覚なレベルで、世界のぐらつきを感じていることだろう。 

そんな3週間のなかで、心の側頭部(心に側頭部があればですが)で考えていたのは、アートのことであり、あなたの「文学は餓えた子供に何が出来るのか」という懐かしい問いのことでした。私にはアートがわからないので、ここでいうアートも、文学、または文学表現、と言い換えることが出来ると思います。 

私があなたの本を買ったのは高校の時分で、その後、ニーチェや、カミュや、キルケゴールを通して、実存主義の、虚無と紙一重のような希望や、翻訳でどこまで読み取れたかわからないようなプラグマティズムを支える気概を理解してきましたが、たぶん、結局の印象として、あなたの、背は低いが、バイタリティに溢れた、前傾で話し込む姿が、すべての私の理解だったのではないかと思ったりしています。 

で、肝心のその問いですが、たぶん私はずっと、この問いへの解答として「という、本来的に筋の通らない問いを『問い』なさしめる力こそが、文学の力である」と、答えていたと思います。今思うと、優等生的で、恥ずかしい答えです。 

(問い) 
文学は餓えた子供に何が出来るのか 

(答え) 
…という、本来的に筋の通らない(成立しえない)問いを『問い』なさしめる力こそが、文学の力である 

 しかし、このテーマは、寄る年波、というか、時間が積み重なるあいだに、いつの間にか、テーマごと、どこかへ行ってしまった、無くなったようです。 
いつぞや私が何度も話していた「問題系の消失」というやつです。 
そして、問題系の消失の本質は、"飽き"です。 


今回の災害にまつわる動きで、いい流れだな、と思ったのは、有名人や実業家が、チャリティー(慈善)をはっきり打ち出して、多額の募金を行ったこと。 
「しない善よりする偽善」という言葉は、文章として間違っていると私は考えるし、あと5回くらいこういう言葉があがるシチュエーションで、この言葉は淘汰されると予想(希望)するけれど、そういう巷間の言葉とは別のレベルで、タレント(才人)がチャリティーをする流れは、いつ底流で醸されていたのかわからないくらい、見事に表に現れた現象だと思う。 
これもあるいは"ノリ"なのかも知れない。 

同時に、漫画家や音楽家が、或いはスポーツ選手が、自分たちの出来ることで応援しよう、という流れも、加速したと思う。これはメディアがテレビだけでなくネットもあるからかもしれない。 

(そして、何も出来ないものが怒る現象を、「不謹慎攻撃」といい、この攻撃に備えることを「自粛防御」と呼ぶのであって、これらはウラオモテなのである) 


 そんななかで、ふと目にした朝日新聞の記事を、わたしは、二度見、いや、ガン見しました。 
http://www.asahi.com/special/10005/OSK201103260148.html) 
これはすごい。 
わたしは、夜の職場で、声をあげて泣きそうになりました。 
なんという力か。 
なんという驚くべき魔法か。 
このイラストには、このイラストを見て表情を緩める子供の顔まで見える! 
また、どう泣いていいかわからない(まだ、張り詰めているに違いない)子供の顔が見える。 

現在の、そして、チェルノブイリの、第五福竜丸の、ヒロシマナガサキの、それに伴うアート(文学)の応戦を、記憶の中から探しては、同時に、あなたの(古臭い)問いを反復する毎日でしたが、ディック・ブルーナ氏のこの一枚のイラストは、あなたの問いを、"飽き"でない形で答えることが出来るかもしれない、とまで思いました。 

この災害が起こるまで、半ば飽き飽きしながら、それでも受け入れざるを得なかった「機械的人間観」や、これからも続くであろう「エネルギーとエゴイズム」の問題のなかで、われわれは、石原都知事のような「旧習道徳」や、ACのような「最大公約数の倫理」より深い場所に、アートの杖で渡っていかねばならない。 

あなたの問いは、たぶんこれからも時代遅れですが、要所要所で、くずおれた人間の目の前に、横たわっている一本の杖となることでしょう。 

なお、この手紙は、あなたにとって未来の手紙なので、あなたがこれをいつ読むことが出来るのか、わかりませんし、読めても、読めなくても、そういうことはよく、あることなのです。 
それでは、またいつか、どこかで。 
                              草々

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