2017年4月2日日曜日

2015年03月作品と雑感。

若い頃、ある著名な歌人と会う機会があり、その何次会かの終わりに、「またいつかどこかで、短歌を続けていたら会うこともあるでしょう」と言われ、その後、私は短歌をやめた。
何年かたって、私はふたたび短歌を作るようになり、ツイッターでもぐずぐずと短歌を作っている。その著名な歌人とは会っていない。たぶん会っても、私のことは覚えていまい。
いま、ツイッターで、プロフィールに短歌と書かれている人を主にフォローしているが、ほとんどの方と会うことはないのだろう。会うことのない方の短歌を、お互いに読むような時代だ。
今年度も、お互いの何かがすれ違えれば、さいわいのように思います。なんとなく、新年度のあいさつっぽく(笑)。

自選など。

忘却があるではないか脳というたんぱくよ君をいそいで溶かせ

液体がやがて氷になるように妄想はかたく冷気を放つ

芸術は人の時間を吸いながらひかりのようなもの帯びてゆく

回想録に誠意と弁護ふくまれていづれを読みたきかは時により

憂鬱な土星の光避(さ)けるため君はカーテンからぼくを見る

帯域(レンジ)ではずっと幸(さいわ)いなる日々の今宵も豚バラ色の人生

ぱっとしない僕の4年はおいといて聞きたくはある君の震災

逃げ切れたことのさびしさ鼻歌の鼻先とともに空気が冷やす

この壁に朝の光がぶつかっておおこの白はユトリロっぽし

ジッパーのタグあご下に揺れていて顔面だけを海にさらして

月のある世界であれば泣く夜も意味のあるべき景色とはなる

毎年の数千人の事故死者の今年の該当者に来たる春

かもしれぬそうかもしれぬ溢れいる明るき春のひかりはなみだ

抱えたる矛盾は多いほどよけれ春の午後腹ごなしに歩く

股下の裾ながきパジャマ踏みながら廊下を歩くふと奉行めく

恋心は無用の欲といいながらキックペダルを二度三度踏む

ボロノイ図で分けられてゆくぼくたちのかつて濃度で決まりし紲(きづな)

順当に役者も客も老いてゆく観劇にいて桜が不変

つくしんぼ斜面にわっと伸びていて威張るなあ若さは柔らかさ

人類の最後のUMAとして神、今日までは発見されず

明かり消してまだしばらくは存在があるらしい闇に溶けてゆく音

一年に一週間の満開の生きててよかったような桜

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