筆記具によって、短歌は変わる。
短歌のはじまりは、おそらくその筆記具は紙と筆で、これは、1945年の戦争の終わりくらいまで続く。そこから、紙は変わらずとも、筆はペンへと変わり、1980年後半から90年にかけて、ワープロ、パソコンと変わり、ここからは個人差があるだろうが、2005年あたりから、携帯端末などによる、指操作で短歌は作られ始めた。
つまり、筆記形態がこれほど変わるとは、ここ50年以内には想像も出来なかったわけで、正岡子規なども、当然想像もできなかったはずだ。もちろん、彼は新聞記者だったので、活字と筆のバイリンガル状態について、何かしら考えがあったはずだろうが。
しかしそれ以上に変わったのは、短歌を詠む、短歌を読むのに、充てられる、時間かもしれない。いや、詠む方に関しては、啄木は一晩で一冊分の歌を詠んだし、もともと、多作と寡作の人がいる。
あ、違う、作ってから発表するまでの時間が、SNSによって実質0時間になったのが大きいのかもしれない。
いったい何の話かというと、筆記用具の話ではなくて、現代の短歌は、短歌にかかっている時間によって規格されているのではないか、という話です。単純に短い長いではなくて、適度な時間がかけられている歌、そういうのは、よい歌なのかもしれないな、という話でした。
自選など。
無言とはひとつの羞恥、現代に歌多くして取り囲まれて
茶樹茸をちゃくちゃく噛みつ明日を生きる命の為に菌までも食い
舞楽而留の当て字ぞたのし言霊と詐欺の過去など遠く離れて
ほんとうに未来が好きかボーゲンで加速度殺しても加速する
亀虫の死骸に蟻が集まって十匹以上のありがとう見る
うつし世がいかなるものにあるとして飲み物はなべて清涼を売る
あんなにも希望を愛していた君がそれゆえ些細な幸福の骸(むくろ)
しあわせはからだのぬくいところからわくよと言われしばらく残る
てのひらがてのひらを待っていることをそのてのひらがないことで知る
六法全書を破り捨ててと歌いいてロックというか法科生じゃん
新宿駅ホームを歩く万人が仏とならん未来(みらい)の未来(ミライ)
ゴムのようなオノマトペにてイントロを歌っておりぬライクァヴァージン
テロリストもスマホの設定する時にこうべを垂れて木のように立つ
30年後夢に見るかもしれぬため少し長めに抱きしめている
風がずっとページをめくる教室の俺は亡霊、お前は不在
老いた馬と若駒と仲よさそうにそれぞれがその生のみを知り
しじまとは一つの音ぞ、この音が聴こえぬところが宇宙のおわり
試験場の時間が止まっているような食堂でレスカのさくらんぼつつく
要するにお釣りが返ってきたんだと長老ゾシマのページをめくる
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