2016年2月6日土曜日

2014年01月の62首

新しき年の寒さよ、掌(て)の中のゼブラフィンチとここに来たれり

細雪まばらに窓を吹き上がり詩情のごとくタイヤを思う

団欒にはやくも飽きて子供部屋の学習机で缶ビール飲む

山の中雪の木曽まで辿るなくウェブの木曽路に漬物を買う

はればれと気温3度の町に立つ都会に出たき子にはつまらぬ

厳粛なる死の威容にて中央道に富士が右から左から来る

訊かれねば抱負はいまだ願い以上決意未満の午後のまどろみ

排ガスに薄汚れたる生垣のつばき、真白き雪にあわずき

年の暮と同じ寒さもどことなく淋しいものがひそみたる街

連休も終わりになって長編をつい読み始む、逃避とも云う

あたたかいホームはいくつ、高台を下る深夜に地上なる星

物倦(ものう)みと思いて見しがポロックの次第にかたちを恋えるラインは

朝マックコーヒーいつもの味がして我もいつもにならねばならぬ

芋粥を飽くほど飲みてそののちの夢なき生を作家は書かず

イースターというよりポンペイ型がよし人という種の滅ぶるときは

根菜の地味なる滋味ぞ、先天的に地上のものはうまき味覚か

二十代を過ぎれば彼は二十代の作品と呼ぶものを作れず

花びらの散るを見つけて山茶花ではないかと思うバス停を過ぐ

白湯飲んでテレビを消して存在が非在のごとく包まん夕べ

ため息にやや嬉しさが含まれていたような気がしないでもない

願はくは花の下にて春死なん安楽死法成立までは

卑下もまた国粋に似て個人詩はマーチのゴーストノートに沈む

食べ終わる菓子の袋の端を引き覗きこみおり、銀色の闇

一月の走り出したき気分にはシューズ買いたき気分も含む

人間の二十年とは眩しくて満ちいるものと褒めそうになる

うろうろと天使ただようレイヤにて滲み吸われていくひとつ色

部屋で一人飲む時に運ぶ中型のデュラレックスは赤くかがやく

あたたかく乾燥したる図書館の匂える隅にある本を探す

珈琲にプロパガンダの白を混ぜ途中まで聴くヴィオラ・ダ・ガンバ

再開発エリアを示す囲い塀の一本路地に人従いぬ

期待なく湯のみに差したつぼみなるポピーの花がぱっくりとさく

この毒は時間で薄めゆきながら消え去りはせぬがないものとする

悲しみの明確でないかなしみに酒量の少しずつ増えてゆく

その音の奏でる側と聴く側のいずれの尋(ひろ)の深さとや見む

歌の次に言葉をなくし思念などもやがては黒き、白き日々なる

つけっぱなしのテレビのせいで一応は笑いの絶えぬ家庭にはなる

手袋をせぬ手は冷えて自転車は再起のように信号を待つ

若さとも老いとも離れ君というイデアをやはり目で見んとする

寒の水てのひらに受け背中まで震えて今朝を新しくせり

御衣黄(ぎょいこう)の咲く頃までにこの時を進まねばならぬ時間ではなく

錦華鳥がチュルヂュルひとりごちている少ない記憶の苦楽取り出し

演奏がだんだんうまくなってゆくパンクバンドの時系列あはれ

育てるのが樹木であればもう少し優しく教えるだろう君も樹(き)

桟橋を寒く歩いて不健全な恋の終わりもみえていたっけ

決意した富楼那に問いは容赦なく答えるたびに階を降れり

楽しさは結果よりなお因なのでこのひきつった笑顔も笑顔

握りこぶしをいまだひらかぬ寒にいて蝋梅の黄の咲く報を聞く

わしづかみ引っ張るように電車らは無線電波の尾を引いてゆく

交通機関乱るれば三時間立ちて身のほどを思うよい機会なり

回復をはじめる自然、電線の鳥のはなしはそのことである

段ボール箱のフラップに「ネコ」と書かれいて朝の歩道におさめてぞあり

動かぬをおそれおずおず覗きこみ次いで生きいることをおそれき

すれすれの幸運で人は生きていてほどける前は解けそうもなく

離縁してかつての趣味を始めたる友の、メールとメールの間

舞い上がる雲雀の一句隠し持ち飛び降りた友と隔つ五年か

特筆の才なくば知性とは機嫌にこにこする他なき老後くる

五十まで世を捨てずなる長明の世に捨てられる感慨はなきや

朝明くる速度で夜は去ってゆきまどろみの暗き思念手放す

口ずさむ管弦楽(オーケストラ)の音階の曖昧なるは曖昧に過ぐ

愚痴なども胃袋にいれ時間遅き飯のコロッケ、愛撫のごとし

あたたかい寒さとなるもおのずからすくまる肩をひらけばひらく

音曲こそ現代ひとの生の知よ、千代に八千代に残す何ある

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