2016年2月7日日曜日

2016年01月うたの日作品雑感。

1月の作品と関係ないけれど、短歌作者の筆名が話題になっている。
短歌が一人称の文芸である以上、名前がもつ印象が作品に影響をあたえるのはたしかにあって、それは作品の演出を強固にもするし、制限もする。
もちろんそれは相互的なものでもあるので、どんなに作品と名前の組合せが奇異であっても、名声が確立してしまえば、その奇異さが忘れられてしまうこともよくあるのだ。

照屋沙流堂も筆名なのだが、今おもうと、かなり沖縄っぽい感じがあるかもしれない。あるいは、沙流の文字から、北海道っぽい感じもあるかもしれない。しかし沖縄にも、北海道にも、ほとんど縁もゆかりもなかった。

「コンピューター」
人間がワレワレを神と仰ぐ日を待ちおれど人は怠惰に過ぎる

シンギュラリティという言葉も耳新しくなくなったすごい時代を生きていて、生きているうちに、実況で、さあ今、シンギュラリティがきました、ばんざーい!(電気かよ) みたいなことを体験してみたい気もするが、たぶんそういうのはなくて、後世の歴史学者は、スマートフォンの普及の2007年あたりを、もうシンギュラリティの到達と書くような気もする。あるいは、もっとざっくり、2001年とか、1995年とか。鎌倉幕府がいつか、みたいな。
ああ、短歌はコンピュータ側からの目線で、はやく支配したいけれど、人間が怠惰なのでなかなかシンギュラリティを越えないじゃないか、という不満を歌ったもので、要するに、コンピュータの支配を避けるために、人はもっと怠けようじゃないか、という意味の歌です。

「腕」
きみは鳥と知ってあわててこの腕を枝に変えたが見抜かれており

この歌のコメントに文屋亮さんが『ぼくにげちゃうよ』という絵本を紹介してくださり、後日書店でみつけました。とてもやさしい絵本で、絵本文化はふところの深いところがたまらないですね。

自選
「果」
砕けたる結果をあつめ金継ぎという復活を待つのもありか

「羽」
エンジェルも翼か羽かどちらかを与えられうら思いのありぬ

「雪」
雪の夜はどこにいるのか野良猫のJはしっぽが名前の由来

「印」
この星にいい印象をもつような笑顔を君はときどきするね

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