2016年5月14日土曜日

2014年04月作品雑感。

5月になっています。5月というのは、さわやかな印象がありますが、最近はけっこう暑かったりもして、昨日のテレビだと、5月の平均気温は130年前とでは2℃くらい上がっていて、かつての5月の気温は、現在では3月くらいなんだそうな。あー、どうりで、と思ったものの、130年前のこと、わし、しらんがな。

生まれていない時期のことを思い出すのは通常の物理法則上では、出来ないとされているんですが、このブログのように、2年前の作品を掲げていると、つい先日作ったと思っていた短歌がもう2年前だったり、最近の着想と思っているものをすでに作っていたりして、われわれは実は球体の上を歩いているんじゃなくて、実は球体の内側を歩いているんじゃないか、という錯覚にとらわれたりします。時間は直線では決してなくて、いや、直線に記述することも可能ではないんだけれど、それはらせんのグラフを横から見るから進んでいるのであって、上から見たら、円のグラフになってしまう、サインカーブみたいなものではないか。だとしたら、認知症の年老いた彼女は、もう時間を横から見るのを止めてしまった、たったそれだけのことなのではないか。

そんなことを考えていたわけではないが、GWには生まれ故郷でゆっくりしながら、お腹周りを絶望的に蓄えてきたのでした。

4月は、どの季節にもありますが、4月特有の季節感があって、それをすくい取ろうとする作品がいくつかあるようです。

  アスファルトの残りの熱を濡らしつつ小雨は匂う、記憶がひらく

  雨あがりに降りたる花ぞ、留(とど)まっていられぬ場所を春とは知りぬ

  雨と桜でどろどろのこのバス停を窓白きバスがためらわず過ぐ

  ビル風に追い立てられてわれとわれの足もとの花びらとで逃げる

  川に沿って菜の花のみちが二本ありこの下流には春の終わり

  公転面の傾きにより来る春の春は女の輝度あがるなり

  真夜の舗道に団子虫青く歩みおり啓蟄過ぎて寝るところなく

  クラッカーの紙ロープ伸びて降るごとし頭上はるかにさえずりの交(か)い

4月はチェルノブイリ事故で、今年は30年だけど、この時は28年ですね。こういう歌はネットではどうなんでしょうね。

  チョルノービリに蹲(うづくま)りおりチェルノブイリスカャアーエーエスはロシア語のまま

今ではウクライナになったのでウクライナ語で「チョルノービリ」という場所に、ある施設がうずくまっている。それは、名前も当時のロシア語のままの「チェルノブイリAES」だ、みたいな意味の歌です。


自選
  ネット見てぐだぐだせむと探しだすいも焼酎とポテトチップス

  ねこばあさんが首をつまんで運びたるおとなしきあの成猫を思う

  アルゼンチンのカジュアルワイン飲んで酔う島国に生まれ島国で死ぬ

  準備中ののれんを一段かたむけて湯気ふっくらとにおう店先

  映画みたいに地球の終わりがわかるなら二時間前に眠りに就こう

  つつじとの違いは君から教わって違いも君も曖昧となる

  前を歩く女が尻を振っていて二歩ほど真似をしてしまいたり

  新世紀のあのなにもかも新鮮だった世界のかけらを蹴りながら帰る    

  夜電車は寄り合い祈祷所のようにめいめいが深くこうべを垂れて

  満開の濃きむらさきの藤棚の悲しみ垂るるとみえておどろく

  両岸の家に挟まれカーブなす人工川の凹状(おうじょう)の闇

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