(といっても自作品と関係ない雑感ばかりだけれど)
昨日、短歌のツイキャス(ライブ配信サービス)で、「いい短歌を作りたい」という話が出て、いい短歌とは何か、という話になったのだが、テルヤは先月のブログでも書いた関心があったので、「それは誰にとって?」と書き込んでしまった。
しかし、その質問は少し浮いていたかもしれない。何がいい歌かという話に、「誰に」は話題そらしのようにも見えるからだ。
短歌における「何を」「どのように」は、そのうち、「誰に」「どこで」という問題に変わるような気がしている。「どこで」というのは、立ち位置のはなしでもあるが、ここでは「座(居る場所)」のはなしだ。
その歌は、歌集に収められていい歌なのか、ウェブ歌会で一番のいい歌なのか、手紙の末尾に添えられていい歌なのか、試験会場の机にペンで書かれたいい歌なのか、コンサート会場で叫ばれていい歌なのか、話しかける友人が一人もいない夜に読んでいい歌なのか。
表現である以上、評価は避けられない。評価を求めるのは大事なことであるが、手段が目的になってはならない。禅において、「魔境」という言葉があるが、テルヤは、魔境とは、手段が目的になってしまってそれに気づかない状態のことを言うのだと解釈している。
足下を掘るしかないのだよね。
自選とコメント(きょうは自分をほめるぞーw
「運」
ホロヴィッツのはやい運指を先生と観ていた音響室でふたりで
※「ふたりで」で、主体が性的な意識に気を取られている感じがよく出てて、濃密になっている。
「術」
詠み人知らずの複数形は知らずぃずか第二芸術論はるかのち
※第二芸術論は、名前を伏せると誰が作ったかわからないような個の打ち出されない文芸は芸術として第一でなく、第二に属する、という主張。でもその戦後の主張も遠く、現在は詠み人もいつでも変わるハンドルネームの作品が増えている。といううた。「知らずぃず」はちょっとしらずぃらしい(白々しい)かなあ。
「ピーマン」
今日もまた火に焼かれたるくたれたるピーマンの皮の透明のところ
※ピーマンのそこをうたにするか
「指」
トーナメント表でいうならシード権の枠を当てるであろうおやゆび
※人体をトーナメント表として見る、というのがむちゃくちゃですわね。
「方言」
方言を失いしかば神さまも微笑みながら伝わらざりき
※たとえば渋谷の神様はギャル語がわかるのか、という話かね。
「疲」
ふらふらのしょぼしょぼのもうよれよれのへとへとのくたくたの「おはよう」
※日本には疲れを示すオノマトペがおおいなあ。
「自由詠」
瓜言葉に貝言葉してネットでは今日もカラーの図鑑をめくる
※文字だけのノンバーバル・コミュニケーションというのはよく行き違いますので、悪気がないのにきゅうに険悪になったりします。そういう時は、同じ言葉じゃなくて、花言葉のような、それぞれの言葉が行き違っているのだ、と考えてはどうでしょう。
「夕立ち」
逃げてゆく思想は追うな、夕立ちのけぶる向こうは晴れ間ばかりの
※政治的なメッセージですかね。7月は選挙もありましたしね。
「バカ」
「人間に飼われたらみんなバカになって毎日食べてしあわせに死ぬぞ!」
※動物にとってしあわせは一義なのか、そうでないのか。そして人間は動物なのか、そうでないのか。
「かかと」
人体でもっとも皮が厚いのにチクチクすれば心を捕(と)らる
※皮が厚いのがかならずしも鈍感ではない、というのはちょっと不思議だよね。
「夏休み」
夏休みの終わらない国に行ったんだ遼くんのパパは笑って言った
※主体がどのくらいの年齢かにもよるが、一瞬いいなあとうらやんだとしたら、主体は後悔を残すかもしれないな。
「遅」
あと百年遅く生まれていたならばきみのお墓で手を合わせよう
※短歌における整合性があやうい作品は、どうなんでしょうね。なんで百年後に生まれて「きみ」を知ってんねん、というツッコミは、ありですよね。そこを越えられるかどうか。
「散歩」
この土地に来た時は会い、川沿いを散歩するだけ手もつながずに
※そういう関係という話ですよね。手をつながない、ということを意識する、という。
「ごめん」
警察のいらぬごめんで済む世界をおもう、残酷かつ寛容な
※この日、この作品のあと、神奈川のあの事件を知りました。寛容は、残酷と通じるかもしれない、というシミュレーション。
「うっかり」
ちゃっかりと暇を伝えてしっかりと送信したとすっかり思い
※うっかりを使わずうっかりを伝えるという、まあ、言葉遊びですわね。
「やばい」
コーヒーにミルク砂糖の両方の代わりに入れたヤクルト、やばい
※やばい、には、いい意味と悪い意味が現在混在していて、ここではどちらなんでしょうね。
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