2017年9月30日土曜日

2015年08月の作品と雑感。

すぐに、思いを発表できる時代に、短歌は、どうなるのか。時間と空間がその制限をうしなって、ほとんど4次元空間を生きていることを、短歌は、どう受け止められているのか。

そういう問いを、いま持てるのは、前の方にいる人なんだと思う。誰が前にいるだろう?

あんまり雑感もないでいいや。

自選など。

この時期に長袖を着ざるをえぬ娘の目は哀しくて美しきなり

迷いたるわれに方角示すため撒き散らされた星、隠す雲

夏の陽のやわらぎはじむ夕方にうづまき点けて座る路地あり

ブルドッグぶるぶるからだふるわせて飛んでいきそうなのを踏ん張る

竹膜を隔てるように薄くまで近づきながら百年触れぬ

昼去ればもう閉じて揺れぬおじぎ草冬を越えぬというが貰いぬ

ツイッターの床屋談義は楽しくて義憤に差別をすこし添えれば

運転をせねば事故など起こさねば縮小しゆく生の一理は

雨の中蝉がわあわあ鳴いていて物語なき今日のはじまり

われもまた形式だけを受け渡し文字積んで歌と呼ぶ一行の

研ぎ澄んだ思想は人を殺すので澄みそうになると口あけており

野良猫の子が鳴いている、雨あがりの冷えたる朝のまづしき底に

いのちとは地球の無数の指だから殺しても殺してもこんちは

人生はばつばつにまるばつにまる、死の採点は残してあそぶ

あらすずし朝のシャワーの国じゅうの乳首の立ちて秋の色する

太陽に顔を圧(お)されて逆光の為です君を眩しく見おり

この先は因果の強い結界でぼくは行けない君はさよなら

孫と手をつないで祖父はなんとなく贖罪のような優しさにいる

「明日もここで待ちます」という字もかすれ伝言板がしずかに朽ちる

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