2018年5月17日木曜日

酔ってないけど。

酔っ払っているので連投したいが、通勤中なので、ブログで出す(笑)。

加藤治郎が、95年の評論集で、口語短歌は前衛短歌の最後のプログラム、と書いていたという。かっこいい言い方だ。

なるほど、前衛短歌は、それまでの短歌の破壊活動プログラムだったと見ることもできる。破調ではない、句割れ句跨りの定型韻律の破壊を技術的言語にして、塚本の体言による映像世界、岡井の用言による揮発性表現、寺山の偽<私性>物語、彼らによって、近代短歌は窒息し、舌を口からこぼした。

21世紀の現在のわれわれにとって短歌とは、大きく3つの流れにいるような感じがある。俵万智的、穂村弘的、枡野浩一的、な流れだ。

穂村弘は、口語短歌を完成させるために、サブカル的文脈を、現代詩っぽく使用した。ただこれは、口語短歌の完成のためであって、韻律詩を破壊するためではなかった。

それに対して、枡野浩一は、そもそも、韻律詩であることに意味を見出さず、彼は、口語短歌ではなく、散文短歌と呼ぶべきものを成立させた。

俵万智はちょっと違って、実は彼女の文語口語混交文体は、息が止まりかけていた、近代短歌の避難所となった。だから、ごく地味な日常詠は、彼女の結界がまだ健在な故であるし、近代短歌に遡る時の平坦ルートと言える。

もちろん、もっとルートは細かいし、そもそも、個人の印象です。

細かいところは各自修正いただいたところで、さあ、ではどこに身を置き、どの武器を持ち、何を破壊するか、それはあなた次第です。もちろん、すべてに属し、完全体になる夢を持つのも、不可能ではないかもしれません。

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