2018年5月5日土曜日

2018年03月うたの日自選と雑感。

古臭い考え方のようにも思うが、短歌というのは、やはり、ちょっと頑張らないと、文学にならないようなところがあるように思う。

ここでいう文学というのは、言葉で編まれた文芸表現をすべてを指すような広い意味ではなく、また、学問として学んだり教えたりするものでもなく、近代文学から、現代文学へと移り、そして、”現在”文学をとおり、文学”未来”を開くような、そういうとても狭い語りの表現だ。

だからまあ、そんな「文学」とやらは目指していないよ、という人がいるのも当然だし、文芸、ああ、文芸という言葉も定義しなきゃいけない。文芸には、文字芸術という言葉の略というより、私は文字芸能に近いニュアンスで使うことが多いが、堅苦しかったり、難しかったり、知識を前提にしたり、そういうもの以外も短歌は受け入れていることを、とてもよい特質だと思っている。

短歌というのは基本的に古い形式の詩なわけだから、古き良きものととても相性がよい。新しき悪きものと相性が悪いのだ。だから、現在にそれを使用するには、どこか構築の意志というものが必要になってくる。

何年か前、耳の聞こえない設定の音楽家が、現代音楽作曲家の手を借りていたことが話題になったが、面白かったのが、新垣隆氏は(名前出すんかい)、あの匿名性を手に入れることによって、現代音楽を作らなければならない自分が解放されて、ロマン派風の音楽を楽しく作曲出来た、というようなことを述べたことだ。

音楽は、音楽のムーブメントが過ぎると、もとに戻ることは難しい。現在において、たとえばバロック音楽の作曲家になるというのは、好事の域を超えて説得力をもつことは難しい。

短歌は、まずは定型にする楽しさ苦しさ、というのがあって、次に、定型の中で表現の幅を広げてゆく楽しさ苦しさ、というのがある。

その先は、人にもよろうが、短歌を表現として選ぶことの楽しさ苦しさ、というのがあったり、短歌を文学として構築することの苦しさ、というのがあろう(楽しさないんかい)。

次世代の短歌(単に作っている世代が次である、ということでなく)を開くのは、才能なのか、努力なのか、知なのか、量なのか、単に世代なのか、さまざまな考え方があるので、最初に書いたように、ここで書いたのは、古臭い考え方のひとつだと思う。わたし自身、構築ということをいま敢えてやろうとはしていないところがある。

ところで、ゴールデン・ウィークは、けっこう食べてしまっている。運動というのを、やはり、ちょっと頑張らないと、習慣にならないようなところがあるように思う。

  浜松を過ぎてもそれを待つだろう旅の終わりはわりあい早いのに  沙流堂

自選。

「暖」
思想ひとつ暖まりゆく夜の二階、屋根を跳ねゆく春の生き物

「マーク」
分からないマークシートを適当に塗りつぶす時の力で抱(いだ)く

「列」
約束はまだまもられて列島にまぶされてゆく春のパウダー

「いろは」
ことのははかつて「いろ」からよみあげていまも「あい」からはじまるものを

「垂」
画面上から何かが垂れてくるようなゲームオーバーみたいな眠り

「蜂」
プログラムみたいな生を生きてらと菜の花畑を去りて一蜂

「雲」
文学の秘密が次の瞬間に出そうで出ない先生と雲

「才」
最初から才能なんてないんだよそれから最近肉焼いてない

「欠」
せとものの白い欠片が埋まりたる空き地にいけばよく君がいた

「穴」
もうひとつの穴なんですよ、もうひとつの穴なんですか、しげしげとみる

「襟」
なにもない春なんですがきょうきみの襟のあたりにひかりがあって

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