月が変わったら先月のうたの日の歌をまとめていたのだけれど、5月のアパシーでさぼったリング。しかしあの命名悪意あるよね。
これは毎年のことなのかもしれないけど、テルヤが観測するのは今年が初めてなので、どうもこの5月は、文学フリマや連休を機に、歌会が活発に行われるようになったようだ。また、それにともなって、歌会論も、みんながそれぞれの温度で、語るのが見えた。そういうテルヤも、昔の記憶をたよりに、わりと大いに語ってしまった。昔の話をとくとくと語る、これすなわち老害なり。
自選や自註など。
「いい◯◯」
荒れ果てて野良も隠れるいい畑地だったがショベルカー現れる
※誰にとってなにが「いい」のか、という歌ですね。
「市」
春の市で人はゆっくり渦となりあなたを探すひとりとなりぬ
「壺」
それほどの価値なき壺よ売れ残り埃積んでも壺として在る
「自由詠」
人生がループものって気づくってこのいとしさが解脱のことか
※先だってもツイッターでメタについて語ってしまったが、仏教における悟りというのは、幾分メタ認知をうながすような修行があるように思われる。解脱とは、輪廻を抜けだすことであり、輪廻を抜け出す、というのは、それが輪廻であると知ることだからだ。
「とうとう」
滔々と流れる河を見て育ちうとうとと愛を注(そそ)ぐ日を待つ
「部」
あなたから預かっている大切な部分がぼくのシーラカンスだ
「冥王星」
大切なものもほんとは見えるのに、冥王星の王子がニヤリ
「そもそも」
きみを好きな遥かなそもそも論をする、individualとは何かから
※individualとは個人、の意味で、これ以上divide(分割)出来ない、という、って、あれ、ここでそもそも論やっちゃうの?(笑
「極」
極楽鳥が首をかしげてわれを見る小声でひとつ訊ねてみれば
「糸」
夕方の多摩川は銀の糸となる河原を去ってゆくわれの背に
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