うたの日というネット歌会サイトを知ったのは、2年前の9/20の大阪文学フリマで、わたしはたぶんそこで初めて、ネットで知り合った人に会う、ということを体験したと思う。とても遅いよねえ。
で、その翌日にうたの日で短歌を出して、それから現在まで、出しているんだけど、うたの日は、そのシステムもさることながら、そこでうたわれる歌風も、なんというか、わりと独特だと思う。けっして画一的ではないので、安易にこうだ、とは言えないのですが。
その理由の一つは、やはり点数制で、しかも時間が決まっていて、そして毎日毎時間実施されてる(時間がない)からかな、と思う。
どういうことかというと、通常の歌会は、歌を出して、歌を読む、というプロセスの中に、「読み」をうながす装置として、点数はある。だから、歌を読む批評の行為の中に、点数を入れたこと自体も批評にさらされるおそれがある。
歌を読む、他の人の読みを聞くことで、簡単に言うと、逆転勝利(負け)があるのだ。独りで読んでたときはこれがいいと思ったけど、批評聞くと、こっちの歌の方がいい、と鞍替えする可能性を、歌会の「読み」はもっている。つまり、読みとか採点自体も批評にさらされるのだが、うたの日にはそれがない。
これは、いい面もあって、オーソリティーが、方向性を示せない、ということでもある。
しかし、それは、単なる素人の集まり、という質の低下につながるということでもない。
なんか、そのあたりの、共和的な感覚が、独特の歌風を作っているような気がする。
テルヤはというと、ほめられた参加者などでは決してなくて、ちょっとお題メーカー的な使用法なので、こんなに偉そうに語る資格自体ないっちゃないのです。
うたの日って、業界は、ガチに研究した方がいいと思うんだけどねえ。
自選など。
「藻」
コンクリートを隠してやさし川の藻の自己犠牲って続かないのよ
「だから」
炎には燃える理由があるというだから昼にはぬるりと起きる
「薬指」
ここにきて抵抗するか薬指ブレイクダンスの手の波するな
「自由詠」
ぼくはもう浅瀬で待つよ無事帰りついたらきみに見えない場所で
「母」
あと母に夢がどれだけあるだろう満艦飾を見にきて親子
「刀」
アクセルとブレーキ間違えそうだからおじいちゃんもう刀はやめて
「肺」
世が世なら肺を病まねば文学に選ばれないと思うクチだろ
「丈」
思ったよりこれは頑丈な檻だなぁぼくらを見てるのは月だけだ
0 件のコメント:
コメントを投稿