2018年4月22日日曜日

2016年03月のツイートから。短歌史とか、文具史とか、短歌における文法の正確性の現代的意味など。

うたの日に出したうたにいただいた感想について、からの、短歌史やら、文具史やらの、ツイートなど。


魚には涙腺なんて持たぬから泣くわけないよ食われるときも/『魚』照屋沙流堂 #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=717b&id=37

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文語と口語を混ぜて即興感を出すために照屋はしばしば文法や論理をおかしくするのだけど、冷静に指摘されると恥ずかしくなっちゃうね。
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照屋の中にも、文法警察とリズム警察がいて、どんなに韻律が悪くてもてにをはがないと許せない場合や、韻律の前には意味すら通らなくてもいい場合がある。どうしたものやら。



そしてなぜか短歌史。


通勤中に短歌史を駆け抜けてみる。

①短歌って何かっていう歴史を考えると、やっぱりスタートは宴会芸のような気がする。あと労働歌。

②短歌がいつまでメロディを伴う"うた"だったのかという研究は誰かしてるかもしれないが、平安時代に恋のおしゃれツールだった頃はすでに紙に書いて送ってたから、黙読はできないにせよ、旋律意識よりは韻律の意識が上回っていたかもしれない。

③その後短歌は貴族社会への通行手形になったり、教養や嗜みになるのだが、正岡子規によって、表現という文学になる。

④文学となった短歌は、斎藤茂吉によって人生や境涯を載せうる形式にまでいたり、近代文学の姿勢や鑑賞のスタイルが完成する。

⑤戦後、筆をもたない、ボールペンや万年筆の若い達筆でない作家が、短歌に人生を載せること自体を疑問視しはじめ、それを敗戦のメンタリティと重ねたりして否定する。

⑥近代短歌を否定された歌人の若いいくつかの天才は、人生ではなくて思想、あるいは芸術を載せる器として短歌を作りかえる。

⑦戦後日本が経済的に成長したころ、突如恋人とサラダを食べた日を大事にする天才歌人が現れる。それまで和食を否定された日本人が高級懐石料理を復活させようとしてるのに、ハンバーガーと缶チューハイうまいよね、と歌うのである。

⑧そうすると歌人の結社にも変化が現れて、歌人たるもの、宴席で酒を飲んでケンカするのもよしとされた(宴会芸の原点回帰か)が、酒を飲めない人たちが、紅茶とケーキで、主食でなく、お菓子のような作品をパティシエのような繊細さで作り始めた。

⑨そして現在、短歌はコンビニの100円スイーツのように、どこにでもあり、決して不味くなく、見事に品質管理されているが、翌週には違うものが並び、それがまたうまいのだ。

⑩さあ、この時代に、どんな作品をつくろうか。フルコースか、ジャンクフードか、旅館の朝食か、なつかしい駄菓子か。梅干し弁当ばかり続けるか。そして、みんな味には飢えているが、お腹は空いていないのだ。

さらに。

①脱線で短歌史を書いちゃったんだけど、現在の短歌を考えると、筆記具とか文体のことも考えざるをえない。

②短歌って「うた」だから、本来は口語的であるはずなんだけど、それを写す道具は、かなり長い期間、筆であった。そうすると「うた」は筆に引っ張られて、口語と文語の中間的な位置に、はからずも置かれたんじゃないかという仮説を持っている。

③いわゆる言文一致運動は地の文における運動であったので、江戸末期から明治の文章でも、会話文などは意外と口語は誠実に写されていたりするし、江戸期の俳句がとても口語的なのに驚く人も多いだろう。

④なので、短歌は意外とそのスタートからさまざまな文体の入り混じった、おかしな一人称表現と言えるだろうし、歌人が文法を知らないみたいな本が出るのもむべなるかなという気もする。

⑤毛筆の筆が硬筆のペンに変わったとき、短歌はやっぱり変わったと思う。筆で〜〜なりけり、と書く心地よさを、ペンは提供できなかったんじゃないか。

⑥折口信夫は、女歌だったかを、言葉を流して、結句でえいっと締めあげて短歌にしてしまう、みたいな事を書いていたけど、これって、口語的な流れであると同時に、視覚的な、筆の動きでもあって、マス目のある紙ではちょっとイメージしにくいなと思う。

⑦翻って現在。現在は、もうペンも使わない。キーボードの上を五指をなびかせて、いや、なんなら親指だけで画面をフリックだ。

⑧照屋はかつてワープロ普及時に、自分の文体が変わる経験に驚き、書き言葉でも話し言葉でもなく、打ち言葉になっていく、と周囲に語ったが、現在では、もう、フリック、すなわち弾(はじ)き言葉と呼んでもいいかもしれない。

⑨で、やっと本題に戻る感じがしますが、弾き言葉らしさは、やはり、揮発性なのだと照屋は考えているフシがあって、それは、どこまで歴史に残すつもりなのかはっきりしない、正しくなくてもよい表現のあり方に見出せるのではないか、と思ったりしています。

⑩簡単に言うと、誤字脱字、てにをはの間違い、文のねじれ、これらの、校正のされてなさ、これをそのまま発表する慎重さの欠如、このあたりが弾き言葉の文芸表現のひとつの可能性なのかもな、と。

⑪「魚には涙腺なんて持たぬから」という言葉の間違い方には、漠然と、こういう、弾き言葉の揮発性が含められそうな気がして、この形にしているようです。改めて言葉にしてみると。

⑫いや、結局間違ってるんすよ。間違ってるし、会話で「持たぬ」って使わないんすよ。そしてそもそも、何かを伝えるのに短歌って最適解でもないんすよ。
それでもなにかしら一かたまりの文字が、文字を、ここに置いてみたいんですよね。

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なにが"はじき言葉の揮発性"だ、揮発してるのはお前の文体維持能力やろ、という脳内指弾者の指摘にエヘヘと笑いながら、もうちょっと。
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「てにをは」っていうのは本当に恐ろしい表現のビス打ちみたいなもので、もうこれは毎回失敗してる。自分の表現でこれがビシッと決まった気持ちなんてしたことがないし、決まってる「てにをは」をみると本当に打ち抜かれる。
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短歌の「てにをは」とは実は関係ない話だけど、思い出すのは、学生の時分に読んでいた、岩波のレ・ミゼラブルだ。
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そこでユゴーはドヤ顔で(ユゴーはドヤ顔作家で、下水道を調べたら下水道の歴史をさんざん書くし、ちょっと滝沢馬琴っぽい感じある)、祈祷、祈ることについて延々書くのだが、そこで「神を祈る」というフレーズがあるのよね。
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打ち抜かれたよね。
「神に祈る」じゃなくて「神を祈る」とした瞬間に、祈るという動詞そのものが更新されて、深い行為であることが示されてしまう。ここから先に読み進められなくて、この言葉に数日間立ち止まったことを覚えている。
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「てにをは」ってこえー、という話なんだけど、でもこれ、ユゴーの本意かどうかは微妙だよね。翻訳の問題かもしれないし。ただ直訳しただけだったり。
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レミゼは、もう手元にないけど、時間があったらどっぷり読みたくなるよね。
今までの映画や芝居ではあまり描かれないけど、ジャンバルジャンの死の間際の描写がまたいいのよ。
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あ、一番最近の映画は比較的よく描けていたと思うけど。ジャンバルジャンがもう、時代とか若さから完全に置き去られて、ミリエル司教と話をしたがるんだよね。
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会話のコードが、もう亡くなった人にしか求められないという感じ。こういうの、なんでユゴーは書けるんだろう。
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今書いていて、想起するのは、あれから毎日聴いている、デビッドボウイだよね。彼の声をいくら聴いても、聴き取るには年齢が足りない、ととても感じる。声は聴こえるけど、場所が見えない、というか。




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