ツイッターのタイムラインで、「自分にとって短歌は趣味か」云々の話題が流れているのを見た。こういうのは、カッコイイことを答えたいけど、カッコよすぎるのもよくない気がする。というか、カッコイイカッコよくないとかじゃないか。
短歌、まあ俳句や川柳その他短詩型文学の人口がどれくらいか、はっきりしたことはわからないが、たとえば日本のツイッターのユーザ数を人体に模したら(どんな比喩じゃ)、くるぶしくらいのユーザ数なんじゃないかな、と思うのよね、しょせん。
だから、仲良くできればいいなって。いや、そうじゃなくて(そうなんだけど)、短歌クラスタと呼ばれている若い人たちは、間違いなく短詩型文学の未来を担う人たちなんだろうな、と思う。担うっていうのは、有名になるってことでもあるし、短歌を辞めてしまっても、その短歌的な感性を、メンデル遺伝のように、潜性させてゆくことも、広い「担い」なんだと思う。
自選など。
「形」
褒められているのは形、まんざらでもないけどわりとしんどい形
「散」
この夏の花火大会は土砂降りで散々だった彼女ができた
「カマキリ」
カマキリは首かたむけて憶いだせぬ殺してやりたい人がいたこと
「店」
友よ寝るな! 浜崎あゆみ大音量の店は遭難したる雪山
「栗」
栗きんとんケーキと説明されたけどばあちゃんモンブラン知ってるよ
「ススキ」
きみは月だぼくはススキだきみが好きだぼくは佐々木だ君も佐々木に
「イカ」
イカのワタをホイルで焼いて日本酒で嘗める、ほんとにここは地獄か?
「ビタミン」
この人を耳の裏まで食べながら寝る前に別にビタミンは摂る
「彼」
元彼にフォローされてるアカウントの私の日々は充実してる
「同情」
同情も4割くらいありまして残りは全部メロンパンです
「首」
首の皮一枚で繋がっている関係ですね、さようなら首
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