2018年7月30日月曜日

2016年8月自選や雑感。

ソシュールーーフェルディナン・ド・ソシュールのことを思う時、ふたつのことを考える。一つは、生前に彼は本を書かなかったこと、もうひとつは、晩年は、言語学に興味をなくし、アナグラムに没頭したこと。
彼の頭の中は、言語がからっぽになったわけではなかっただろう。いやむしろ、言葉に満ち満ちていただろう。そしてそれゆえに、彼はそういう、二種類の、沈黙をしたのだろう。

私は直接ソシュールをがっつり学んだわけではない。が、丸山圭三郎の本に出会ったとき、息が苦しくなるほど面白かったことが懐かしい。

ソシュールの晩年がアナグラムに没頭した日々であったことを知った時、それは甘美かつ恐ろしいことであった。今はどうかな。恐ろしくはないな。甘美は、甘美だな。あと他に、ああ、これは飢餓でもあったのかな、と思う。

短歌の話と関係なかったな。そういうことにしておく。

自選。

生きることはわめくことだと夏蝉は喜怒哀楽を超えて震える

切れぎれの森の電波を頼りつつきみを追うきみは電波のむこう

ときどきは子どもに自慢したろうか森田童子ののちの日々にも

素朴なるスコーンを食い素朴なる午後なりアーミッシュにあらざれど

ふるさとの気づけば首が止まりたる扇風機のつむじ今年も叩く

悪を討つために悪なる顔をする権現が彫られてより千年

屋外のトルソ(胴像)は憶(おも)う、抱きしめてもらえぬ刑はまだ序章なる

トイレでは音を気にせぬ性質(たち)だろうそういう奴が革命をなせ

六杯の艦隊がゆく日本海おれたちホタルイカなんだけど  「杯」

薄めなるジントニックは新春の小川の上の雪の味して

人のために生きてるときに人になる生き物がいま地球を覆う

青春が師匠とともにあったというこういう話はつまらないかな

どの国もわりとナチスと類似してひどいのでどこを褒めて伸ばすか

おっぱいが生み出す悲劇本人はそうは思ってないふしあれど

悲惨さを伝えるために残しても風化してすこしカッコよくなる

浴衣など着てはいないが夕暮れのぼくらは地味にロマンチックだ

良心の自由、塚本邦雄なら百日紅の零日目の喩へ

2080年涙などないままに跡地にマスクなしで立ちおり

安ワインを一本空けて明日からの永遠を前にへらへらしおり

音楽がふいにぼくらにやさしくて掌(て)で頬に触る部分にも似て

人道的な首切り器械が残酷に見える時代よ、刃がいま光る

幽霊をさわやかに否定したのちの無霊の土地よ、いささ猥雑

プライドのせいで今世ははい終わり風食のまだ立ってるかたち

先輩が恥ずかしそうにぼくに言う、俺の祈りは「助けて」だから

きみのことはすてるBOXだけれどもきみの手紙はとっとくBOX

鼻髭の口をすぼめて微笑まる恩師、帰りに湯のごと嬉し

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