ツイッターはツイの棲家、いや、終の棲家になるだろうかと考えてみると、多くの人は、否と答えるだろう。しかし同時に、このインフラと紛うほど普及したシステムの終わりや未来を想像するのは、難しい。いつごろ、どのように人類はツイッターをやめるのだろうか。
現在はまだ、本というものが権威をもっていて、本になることが、文字表現の一つの完成と思われているが、将来、たとえば、ツイッターの、アカウントが、一つの読み物になったりしないだろうか。もちろん、そのためには、技術的にも、読むという行為の意味論的にも、ブレイクスルーがいくつか必要であろう。
消されてしまった、あるいは消えてしまったアカウントのいくつかにも、ああ、読み物としてちゃんと読んでみたかったな、と思うようなものがあった。
mixiも、いまでも残っているけど、逆に今から始めるのも面白いかもしれない。あ、うーん、いやどうかな。
アカウントのアイコンを決める眼差しの遺影みたいな比喩は用いず 沙流堂
自選
「憎」
容赦なく無知を軽蔑した上で差別を憎む君の横顔
「Rock」
友人がある日を境にロックとかロックでないとか言うので頭突き
「自由詠」
枇杷の木も枇杷の木に生(な)る枇杷も濡れそれを啄むカラスも濡れる
「さざなみ色」
先に出た博物館の前の池は初夏のさざなみ色のさざなみ
「ストロー」
ストローでぷっと吹いたら優しくてこんな終わりにちょうどよかった
「蒔」
油断するとどんなものにも蒔絵とかほどこしちゃうのニッポンみある
「省」
省略をしてはならないきみといる時間のひとつ、ひとつ、ひとつ、を
「包丁」
沈黙の母のとことこ包丁の絆は切れやすいから切らぬ
「垂」
垂れている驚くことにぼくたちは空に向かって垂れてるいのち
「四角」
にんげんのルールはいつも四角くて尖ったところにまたあの人だ
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