2015年12月12日土曜日

2013年07月作品雑感。

ネットのどこかで、われわれがずーっと昔からそうだと思っていることのほとんどは、せいぜい100年の歴史も持っていない、というのを読んだことがある。

たしかにそのとおりで、それどころか、50年前には50歳未満の人は生まれていないわけで、その人達は、単純に、見たことすらないわけなのだ。
いや、生きてたって、30年前なら記憶だけで語れることに危うさが出てくるし、5年前のいやついこないだの景色も、外部保管媒体がなければ、微妙で適当になって、つまり、人間はだいたい数日前後をうろうろする生き物ではないかとさえ思えてくる。

  駅前の工事終わればたちまちに上書き前の景失えり

人間の指の動きで歴史を構成しなおしたら、1990年代の半ばから、人類は急速に人差し指で軽く押さえる行為が増え、そのクリックと呼ぶ行為によって、人類は知識を吸収し、生産性を上げ、またストレスを抱え込む生き物となったといえるだろう。これは当然、マウスという、齧歯哺乳類の名前を冠したポインティングデバイスの発明によるものだが、このデバイスも、未来永劫に存在が保証されているわけでもなく、数十年もしたら、誰も持っていないものになるかも知れない。

  現生のホモ・クリクタス(クリックするヒト)も減る未来クリック出来る場所に集まる

その時、あの懐かしいクリックの感触と音を求めて集まる人は、若い人にとってはいささかうっとおしい存在であるかもしれない。

  かき氷の青い光を噛みながら同じ話をする側になる

30年前のSFやアニメの設定では、その未来の多くが、人口爆発の問題を抱えていて、この難問を抱えながら、問題そのものが失われることに気づくことすら出来なかった。でも日本は2008年に人口のピークを迎え、おそろしいことに、人口減少について考えねばならなくなった。(これだって未来のことは分からないと言えるかもしれないけど)
共同幻想、というかフレームが変わると、見る景色すべてが変わる。かつて人口減少になやんだ時代はなかったか。その時代はどうだったのか。彼らも滅びを肌に感じたのだろうか。

  縄文の人口減少期の空にかかるエフェクトすさまじからむ

そして、自分たちが減ってゆく時に、増えてゆくものを、じっとりと眺める心境は、いかなるものだろうか。

  とんぼ少年絶滅ののち人界をうかがうようにとんぼあらわる

というか、なんやこの歌物語。雑感としてありなのか、こういうの。

自選。
  固き言葉にまだ成りきらぬ内面のとろりとしたるものだから吐露

  だいたいは三万日に収まれる喜怒哀楽に君といるなり

  橋の下に豪雨を凌ぎ寄り来れば先客の目が集まって散る

0 件のコメント:

コメントを投稿