2015年12月20日日曜日

2013年10月作品雑感。

短歌とは何か、という問いはさんざんされてきたのであろうが、いちばんふわっとした、大きな言い方をするならば、「五七五七七的なもの」といえないだろうか。照屋は現在そんなふうに考える。
「的」を入れたのは、もっぱら音の問題で、頭の中の拍みたいなものを、ちょっと早めたり遅めたりしてなんとなく五七五七七に収まれば、それもOKである、というような意味である。
いや、もう少し言葉を足すと、「五七五七七的な音数でひとかたまりと言いうるような伝達物」という方が適切かもしれない。このあたりの定義が、いちばんうっすーい、溶けかけのオブラートみたいな境界線なのかなーと照屋は考える。

かつて何かで見知った、正岡子規は、俳句の中で初めて柿を食った俳人で、その瞬間に、俳句で柿を食ってもよくなった、というような、フレームとか共同幻想とか言われるような表現の破れをめざすのは、現代において短歌表現を行なうひとつのねらいだとは照屋は考えていて、そういう、まだ「短歌的」ではないけれども、その作品のあとにはそれが「短歌的」になるようなものが作りたいし、見たいと思ったりする。

なので、短歌が「歌いそうに」なると、ずらすし、外すし、逆に、もっと「歌ったり」する行為をしてしまうのだが、たぶん、それとて、フレームとか共同幻想とかな訳で、ほんとうに破れてしまっているのをみると、これはもう保守的に、理解不能になるのではないかという恐れもある。もうなっているような気もする。

これ別に、この月の作品の雑感じゃないよなあ。
自選。
  練り切りを口に含んでゆっくりと舌で圧(お)しつつある君の黙

  星と星を懐中電灯で結びながら最後まで星の話しかせず

  このビルの裏路地のどこかわからぬが木犀がある、告ぐことならず

  地球ゴマの指の横まで傾いて離れんとする、求めんとする

  朝という場所の明るさ、ひかりとはやはり讃嘆する意を秘めて

  青空の広がる前はなにかしら一過するらむ、辛いことだが

  さびしさは知性のどこか、独語せぬ対話プログラムの待ち時間

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