短歌がハレからケに移行してひさしいという話を続けているが(この話題を続けるのね)、じゃあ、現代の日常って、ケなのかというと、それはそれで議論の余地があるよね。
世界にはニュースがあふれているし、自分の生活が地味であったとしても、なにかしら華やかなイベントに世間は満ちている。それは楽しいことばかりでなく、悲しいことも同様だ。いやむしろ、悲しみや不満の方が、何も起こらないわれわれをなぐさめるコンテンツとして優秀かもしれない。
自らは何も負わずに待っている革命、目玉焼きの底は焦げ
この月は12月で、そして今から3年前の2012年。まだ震災、原発事故から2年経っていない頃だ。この時期に照屋がとった表明は、以下のような立ち位置だった。
原発にあらあらうふふ、推進や脱や卒にも微笑むばかり
2015年11月の現在も、どこかで、全部が、ガラガラポンと一挙に問題解決するような期待感があるし、世界はいかにもいびつに動いているような感じがある。そう、もっと自分は賢いのだ、みんながそう思っている時代なのだ。
空青く風は冷たし、幾たびの死を繰り返し此度も愚か
短歌はケのものになったが、日常はケではなくなった。民俗学用語であるハレとケではあるが、ここでいうハレは、おめでたいだけの意味ではなく、悲しみや死といった、マイナスの非日常も指している。てことは、やっぱり、この時期の照屋の暗い作品は、ケに入り込み、ケが枯れるのを、ケガレを待っている時期だったのだろう。
ことのはの一輪のため内側にまだ不可触の沼地をもてり
襤褸まとえば心も襤褸、さもなくば魂は裸にて屹立す
人間愛を歌えぬ咎を詩型とか世相のせいにしてもう師走
自選は以下。
動物は家に閉じこめうきうきと雨季は植物ばかり楽しき
呑んだので無理ではあるが浜を噛む闇夜の波を見せたき夜更け
洗面所で大口ひとつ、朝なので身内の闇に光いれおり
滅亡の日の浴槽に浮かびたる柚子の掬われざる一千夜
昭和生まれに昭和が遠くなりゆくを突風が帽子飛ばして、追わず
始まりと終わりが寒い国にいて幸福とやらのこと思うなり
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