2015年11月29日日曜日

2013年05月作品雑感。

前回は文系不要論的な話をしましたが、古くは夏目漱石の小説なども一段低級な娯楽と考えられていたように、文学といわれる存在がなにか高尚な、立派なものであった時代というのはそもそも少なくて、現在は文学が低迷しているように見えているけれども、やはり日本の戦後がちょっと特殊だったのではないか、というふうに思ったりします。

文学は、かつて心理学が普及しだした頃も、文学なんて不要に思われただろうし、情報処理技術が発展した頃も、文学の役目は奪われるように感じられたし、昨今では、社会学がことごとく現象に名前をつけてゆくので、文学がようやっと編み出した言葉も、ああ、〇〇のことね、と理解されてしまったりします。

  NIMBYのエゴを正義にすり替えて傷つきたくない行列が行く

そうした時代に短歌表現は、気の利いた言葉あそびだったり、伝わりにくい個人感覚だったり、あるいは、用語のコミュニケータだったりしながら、ハイコンテクストに、誤解と理解の草をなびかせてゆく。

  マザーグースのことばのようによみかえてよみかえてなお不思議なあなた

かつて、このまま短歌を続けるのはあまり良くないのではないか、と考えて、離れた時期があった。自分が、短歌を作ることで、自分は短歌的に思考し、世界を短歌的に切り取って理解する癖がついてしまったのではないか、と恐れたのだ。

  国際化できえぬ宿痾、日本語が世界を日本語化して佇む

それについてはいろいろあって現在なわけですが、まあ短歌的というには、もうちょっと上手いのを作れよ、という声はおっしゃるとおりです。

自選。
  ゴータミーの悲しみが消えたわけでなく孤独が加わって罌粟の咲む

  新世紀13年目の休日を浴槽で少し居眠りをする

  さわやかな初夏の電車の昼前の床にひとつの海月溶けおり

  数日で消えると知りて洗面器にくらげを飼うことを許したる父

  だんごむし死しては生まれ生まれして人間の終わる日を待ちにけり

  今日の光を真白く受けて万華鏡の細片がぎこちなく落ちつづく

  陽の光に部屋の埃の舞い上がるしばらく、ひとつの肯定ありぬ

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